高杉晋作

高杉晋作コラム

高杉晋作が愕然!?中国で彼が見たものとは?

幕末の風雲児として知られる高杉晋作ですが、彼は若い頃に中国に渡ったことがあります。

そこで彼が見たものとは何だったのでしょうか?

今回は高杉晋作の中国視察について、専門家的な視点から解説します。

 

高杉晋作が中国に渡った理由

高杉晋作が中国に渡ったのは文久2年(1862年)のことです。

 

当時、長州藩では尊王攘夷派と俗論派という二派に分かれていました。

尊王攘夷派は天皇を尊敬し、外国人を追い出そうとする思想で、高杉晋作もその一員でした。

俗論派は幕府と朝廷が協力して開国を進めるべきだと主張する思想で、長井雅楽などが代表的な人物でした。

高杉晋作は俗論派に反発し、暗殺計画まで立てるほど激しく対立していました。

 

しかし、仲間の桂小五郎や久坂玄瑞らから説得されて、一時的に国外に出ることを決めました。

ちょうどその頃、幕府が募集していた上海視察へ長州藩代表として参加することになったのです。

 

高杉晋作が中国で見たもの

高杉晋作は上海視察中に約2ヶ月間滞在しました。

そこで彼が見たものは、アヘン戦争に敗れて欧米列強に支配されつつある清国の悲惨な状況でした。

清国では外国人居留地や租界(そかい)と呼ばれる地域が設けられており、そこでは清国政府や法律よりも外国人や外国法律が優先されていました。

 

また、太平天国の乱や捻軍(ねんぐん)の乱など内乱も続発しており、社会的混乱や貧困も深刻化していました。

高杉晋作はこのような清国の現状を目撃し、日記『遊清五録』にその衝撃を記録しました。

「日本國ハ此ノ如キニ成ルベカラズ」と書くほど危機感を抱きました。

彼はこのままでは日本も同じ運命を辿ってしまうかもしれないと考えました。

そして帰国後は尊王攘夷運動に一層熱意を持ち、奇兵隊や下関戦争など数々の歴史的事件に関わっていくことになります。

 

高杉晋作から学ぶ現代でも役立つ情報

高杉晋作は中国視察を通じて自分自身や日本社会を見直すきっかけにしました。

彼は自分の信念に従って行動し、時代を変える力となりました。

 

しかし、彼はその過程で多くの苦難や犠牲にも直面しました。

彼はわずか27歳という若さで病に倒れました。

高杉晋作から学ぶことは多くありますが、特に重要なのは自分の目で世界を見ることだと思います。

高杉晋作は中国で見たものを真摯に受け止め、自分なりの答えを探そうとしました。

 

彼は日本だけでなく世界全体を視野に入れて考えることができました。

現代でも国際化やグローバル化が進む中で、中国や他国とどう関わっていくかは重要な課題です。

高杉晋作のように自分の目で見て考える姿勢は参考になると思います。

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