幕末の長州藩には多くの志士が育ちましたが、その中でも特に目立った二人がいます。
高杉晋作と久坂玄瑞です。同じ松下村塾で学び、吉田松陰から高く評価されました。彼らはただの友人ではありません。
ライバルでもあり、同志でもありました。
この記事では彼らのエピソードと、幕末史を変えた二人の関係と生き方に迫ります。
松下村塾の「双璧」、吉田松陰に認められる
高杉晋作と久坂玄瑞は、幕末の長州藩における尊王攘夷派の中心人物でした。
彼らは同じ松下村塾で学び、吉田松陰から高く評価されました。
吉田松陰はふたりの才能を特に高く評価し、さらにお互いを伸ばすため競い合わせました。
高杉晋作は身分の高い藩士で、それまで剣術は立つが学問が苦手であったと言われています。
しかし吉田松陰の教え、そして久坂玄瑞の存在により高杉晋作は勉強家と激変します。
吉田松陰の死後もふたりの友情関係は続き、高杉晋作にとって唯一、久坂玄瑞は心許せる存在であったことがわかる手紙が残っています。
久坂玄瑞は吉田松陰の意思を受け継ぎ、長州藩の尊王攘夷派のリーダーとなって奔走しました。
その頃、長州藩は公武合体論が主要となりかけますが、久坂玄瑞や桂小五郎らの働きも功を奏し持ちこたえました。
久坂玄瑞は京都で梅田雲浜・梁川星厳ら有名志士と結んで活躍します。
若くして散った二人のエピソードと遺した影響
しかし、久坂玄瑞と高杉晋作の活躍は長くは続きませんでした。
久坂は過激な攘夷活動を続ける長州藩ですが、その勢いが突如急転する事件が起きます。
八月十八日の政変です。
それによって長州藩士は京都から一掃されてしまいます。
それでも志士たちは踏ん張りますが、そんな中「池田屋事件」が起こります。
徐々に劣勢に追い込まれる長州藩、なんとか武力で訴えようとするします。
その中心にいたのが来島又兵衛です。
久坂玄瑞は自制を促しますが、結局共に決起することとなり、禁門の変が起き、長州藩は敗れます。
そして、久坂玄瑞は自刃して亡くなりました。
24歳の生涯でした。
高杉晋作もまた、若くしてこの世を去ります。
高杉晋作は、功山寺挙兵を経て長州藩の俗論派に変わり藩の指揮官になります。
その後、第二次長州征伐では幕府軍を圧倒し明治維新の足掛かりを作ります。
高杉晋作はその後も長州藩の改革に尽力しました
しかし、高杉は体調を崩し、1867年に27歳で死去しました。
死因は肺結核と言われています。
久坂玄瑞と高杉晋作は、若くして散った二人の英雄ですが、その生き様は多くの人々に影響を与えました。
彼らは吉田松陰の教えを受け継ぎ、尊王攘夷の理想を貫きました。
彼らは身分や格式にとらわれず、才能や志を重んじました。
彼らは自分の信念に従って行動し、時代を動かしました。彼らは明治維新の原動力となり、日本の近代化に貢献しました。
高杉晋作と久坂玄瑞の生き方から学ぶこと
この記事では、高杉晋作と久坂玄瑞という幕末史を変えたライバルと同志のエピソードについて紹介しました。
彼らは同じ松下村塾で学び、吉田松陰から高く評価されました。
彼らは若くして散った二人の英雄ですが、その生き様は多くの人々に影響を与えました。
記事の中で紹介したエピソードは以下の通りです。
・吉田松陰がふたりを競い合わせて才能を伸ばしたこと
・ふたりが京都で尊王攘夷運動を展開し、幕府や薩摩藩と対立したこと
・久坂玄瑞が八月十八日の政変や禁門の変で自刃したこと
・高杉晋作が体調を崩し、27歳で死去したこと
以上が、高杉晋作と久坂玄瑞のエピソードのまとめです。
彼らは幕末史において重要な役割を果たした人物であり、その生き方から学ぶべきことが多いと思います。