高杉晋作

高杉晋作コラム

高杉晋作が残した功績。奇兵隊と功山寺挙兵にみる長州魂

幕末の長州藩では、尊王攘夷を掲げる正義派と、幕府に恭順する俗論派との対立が激化していました。

正義派のリーダーである高杉晋作は、俗論派に追われて九州に亡命しましたが、長州を救うために決死の挙兵を決意します。

その舞台となったのが功山寺です。

ここでは、功山寺挙兵の経緯と意義を紹介します。

 

高杉晋作と奇兵隊

高杉晋作は、吉田松陰に師事し、尊王攘夷思想に傾倒しました。

京都で起こった禁門の変では、正義派諸隊(奇兵隊や御楯隊など)を率いて活躍しましたが、敗北して長州藩は幕府から朝敵とされました。

 

この時から正義派と俗論派の争いが始まります。

高杉晋作は奇兵隊を創設しました。

奇兵隊は正規軍ではなく、長州出身者だけでなく他藩から来た浪士や農民も参加していました。

彼らは攘夷志士と呼ばれ、幕府や外国勢力に対抗するために訓練や武器調達を行っていました。

 

功山寺挙兵とは

1865年1月12日に、長州藩の正義派の指導者である高杉晋作が、藩政を掌握していた保守派の椋梨藤太らを打倒するために、下関市長府の功山寺で起こしたクーデターです。

この事件は、幕末の長州藩内部で起きた一連の紛争(元治の内乱)の中で最も重要な局面となりました。

 

しかし、禁門の変や四カ国連合艦隊の報復攻撃の敗戦で士気の上がらない状態で、当時奇兵隊の総督赤根武人は挙兵に猛反対します。

そんな中、伊藤俊輔(博文)率いる力士隊は現地に一番乗りで決起します。

後年の伊藤博文は「私の人生において、唯一誇れることがあるとすれば、このとき、一番に高杉さんのもとに駆けつけたことだろう」と残します。

高杉晋作も「是より長州男児の肝っ玉を御目に掛け申す」と長州魂全開で挙兵の決意を表明します。

 

結局、高杉晋作はわずか80人余りの部下とともに決起しました。

 

その後、その勇気と才能によって多数の同志を集め、数千人以上に膨れ上がった軍勢を率いて萩城に迫りました。

彼は奇兵隊や遊撃隊など非正規部隊からなる自由民兵組織を率いて戦いました。

功山寺挙兵では高杉晋作ら正義派が圧倒的不利な状況から奇跡的な勝利を収めました。

 

彼らは萩城下まで進撃し、保守派政権を崩壊させました。

その後和議交渉が行われて両派は和解しましたが、実質的に正義派が主導権を握ることとなりました 。

 

功山寺挙兵から学ぶこと

功山寺挙兵から学ぶことは何でしょうか?

私は以下の三つだと思います。

 

一つ目は、「信念」です。

高杉晋作は自分の信じる道を貫き通しました。

彼は尊王攘夷思想だけでなく、民主主義や社会改革など先進的な理想も持っていました。

彼は自分の理想を実現するために命懸けで行動しました。

彼の信念は多くの人々を感化し、日本史全体を変える力となりました。

 

二つ目は、「勇気」です。高杉晋作は恐れ知らずでした。

彼は敵より数十倍も多い藩政府や幕府軍に立ち向かいました。

彼は将軍や公使にも物怖じせず、自分の意見を述べました。

彼は藩政府や身分制度にも従わず、自由な志士たちと共に奇兵隊や遊撃隊を結成しました。

 

三つ目は、「行動力」です。

高杉晋作は考えるだけでなく、実際に行動しました。

彼は功山寺挙兵や萩城下進撃など過激な行動で時代を変えようとしました。

彼は四境戦争や海軍総督として戦闘的な行動でも幕府に勝利しようとしました。

 

以上が私が考える功山寺挙兵から学ぶことですが、高杉晋作の生涯や言行から何か感じ取れることができるはずです。

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