高杉晋作に、どんなイメージを持ちますか?
幕末の長州藩の尊王攘夷志士で、奇兵隊を率いて倒幕運動に貢献した英雄です。
しかし、彼の生涯はそれだけではありません。
高杉晋作は何度も脱藩しては帰ってきたり、僧形になったり、外国との交渉をしたりと、破天荒な行動を繰り返していました。
そんな高杉晋作の生き方を紹介します。
高杉晋作の脱藩までの経緯
高杉晋作は、長州藩士として生まれましたが、幼少期から自由奔放な性格でした。
安政4年(1857年)吉田松陰の「松下村塾」の門下生となります。
高杉晋作が生涯の師とあおった吉田松陰は、「日本一の逸才」と称された人物であり、「尊王攘夷」などの思想を学びました。
しかし吉田松陰の予期せぬ死後、高杉晋作は深い悲しみと、「激しすぎる怒り」とともに時代のうねりの中へと巻き込まれます。
文久2年(1862年)高杉晋作は中国へ幕府使節随行員として現地の現状を知り、建設中の品川英国公使館を焼き討ちにするなど、現在では考えられない破天荒な行動に出ます。
それも亡き吉田松陰の教えを心に宿し、「志」強く時代を駆け巡ります。
その後、奇兵隊の設立等の活躍が認められ、長州藩内で地位も得ます。
しかし、高杉晋作は突然脱藩します…
高杉晋作が脱藩した理由とその後の活動
文久3年(1863年)政変により長州藩は京都から締め出されることになります。
政変を受け、長州藩内では勢力の復帰を計画し、二つの勢力が対立することになりました。
・武力により復帰を目指す来島又兵衛らのグループ
・慎重に復帰を目指す周布政之助や高杉晋作らのグループ
高杉晋作は、長州藩主の命令により武力行使による暴発を防ぐため、来島又兵衛らを説得することになります。
しかし説得が上手く行かないどころか、「俺も一緒についてってやる!」と藩命を無視し、勝手に京都へ向かってしまいます。
結局その行動が藩主に背く脱藩行為とみなされ、かつて吉田松陰も投獄された野山獄に投獄されてしまいました。
当時の脱藩行為は死罪にもなり得る重罪でしたが、野山獄に3か月程投獄された後は自宅謹慎のみで事無きを得ました。
高杉晋作の謹慎中、禁門の変や四国艦隊下関砲撃事件が勃発します。
長州藩は四国艦隊下関砲撃事件により降伏を余儀なくされ、講和交渉することになります。
そこで講和交渉に抜擢されたのが高杉晋作でした。
四国艦隊は賠償金300万ドルと彦島租借を求めます。
高杉晋作は長州藩の家老「宍戸刑馬」と変名し、交渉の場では古事記を読み上げるなど奇想天外の交渉術にでます。
そして彼は、そのどちらの条件も跳ね除けてしまう活躍を見てたのです。
その時の様子をイギリス側の通訳は高杉晋作を「魔王」のようだったと振り返っています。
その後、功山寺挙兵をおこなったり、長州藩の司令官として活躍します。
一時は脱藩行為で死罪になる可能性もあった中、見事に返り咲き、彼の行動力に敵見方が魅了しました。
高杉晋作の破天荒な生き方から学ぶこと
高杉晋作は、幕末の日本を変えた人物の一人ですが、その生き方は常に自由を求めていました。
詳細な記録は残っていませんが、高杉晋作は4回以上脱藩したと言われています。
彼は、幕府や藩に挑戦し続け、時代の変化に対応する力と、自分の信念に従う勇気を持っていました。
彼の破天荒な生き方からは、現代でも役立つ情報がたくさんあります。
・自分のやりたいことを見つける
・自分の考えをはっきりと伝える
・新しいことに挑戦する
・他人の意見に惑わされない
・自分の責任を果たす
高杉晋作は、幕末の日本を動かした人物ですが、その背後には、彼自身の強い思いがありました。
彼の生き方は、私たちにも多くのことを教えてくれます。
高杉晋作の破天荒な生き方を参考にして、自分らしく生きてみませんか?