長州藩は尊王攘夷運動の先頭に立ち、外国船を砲撃するなど過激な行動を繰り返していました。
しかしその結果、イギリスやフランスなどの強国と戦争になり、大敗北してしまいます。
この記事では、高杉晋作がどうやって世界最強国イギリスと交渉し、賠償金の支払いや彦島の租借を阻止したかを紹介します。
下関戦争とは何だったのか?
下関戦争とは、1863年と1864年にかけて起こった長州藩と外国艦隊との戦争です。
下関戦争は二つの事件から成り立っています。
一つ目は1863年5月10日に起こった下関事件です。
この日は幕府が朝廷から要請されて制定した攘夷期限でしたが、幕府は攘夷を実行せずに外交交渉を続けていました。
これに怒った長州藩は関門海峡でフランス・アメリカ・オランダの船に対して砲撃を開始しました。
しかし、逆にフランス・アメリカ艦隊から反撃されて惨敗しました。
二つ目は1864年8月5日から8月21日まで続いた四国艦隊下関砲撃事件です。
この事件ではイギリス・フランス・アメリカ・オランダの四国連合艦隊が長州藩への報復として下関海峡で砲撃を行いました。
連合艦隊は圧倒的な火力で長州藩の砲台や町並みを壊滅させました。
高杉晋作が見せた交渉力とは?
四国艦隊下関砲撃事件で敗北し、禁門の変でも敗れた長州藩は朝敵とみなされ、孤立無援の状態でした。
そんな中、和議交渉役として選ばれたのが高杉晋作です。
彼は自分の身分を偽り、宍戸刑馬という偽名で連合艦隊の旗艦に乗り込み、傲然とした態度でイギリスのキューパー司令官と対峙しました。
通訳を務めた伊藤博文は後年、この講和会議において連合国は賠償金の支払いなどの条件とともに彦島租借を要求してきたと回想しています。
高杉晋作は「賠償金」と「彦島租借」ともに応じない姿勢をみせます。
「賠償金」については、そもそも幕府が下関海峡封鎖など攘夷による命令を出したのだから、幕府の責任であると幕府に肩代わり交渉させることで合意します。
「彦島租借」については、上海留学中に見た現地の現状を考え、断固拒否する姿勢で挑みます。
高杉晋作がどうやって彦島租借を退けたか?
高杉晋作が朗々と「古事記」の暗唱を始め、通訳の伊藤俊輔(博文)を辟易させることになります。
高杉晋作は日本神話に纏わる話で相手を煙に巻き、圧倒したと言われています。
これもまた一種の交渉術だったかもしれません。
高杉晋作が残した教訓
高杉晋作が見せた交渉力は、幕末・明治維新期だけでなく現代でも重要な教訓です。
・外国から圧力を受けても自分たちの主権や尊厳を守ること
・外国から学ぶことも必要だが自分たちの文化や伝統も大切にすること
・外国と交渉する時は知識や情報だけでなく気迫や戦略も必要なこと
今後も日本が世界で活躍するためには、高杉晋作が見せたような交渉力が求められます。