高杉晋作と聞くと、どんなイメージですか?
幕末の長州藩の尊王攘夷志士として、奇兵隊を率いて幕府や外国と戦った英雄でしょうか?
それとも、病弱で若くして亡くなった悲劇の人物でしょうか?
彼は、自分の信念に従って行動し、時代の変革に大きな影響を与えた人物です。
彼が何藩でどんな活躍をしたか、生涯を簡単に振り返ってみましょう。
高杉晋作は何藩士?
高杉晋作は、天保10年(1839年)8月20日に長門国萩城下で生まれた長州藩士です。
父も長州藩士で200石取りの高杉小忠太、母は大西将曹の娘ミチです。
3人の妹がいましたが、男子は晋作だけでした。
12歳で藩校明倫館に入学しました。
その後、吉田松陰の「松下村塾」その門下生となりました。
吉田松陰は、「日本一の逸才」と称された人物であり、「尊王攘夷」などの思想を教えました。
安政4年(1857年)、晋作は江戸遊学に出発しました。
昌平坂学問所や大橋訥庵の塾などで学びましたが、師匠の吉田松陰が安政の大獄で捕らえられると知ります。
伝馬町牢屋敷を訪れて見舞いましたが、間もなく処刑されることを知ります。
万延元年(1860年)、帰郷後に防長一美人と言われた井上平右衛門(山口町奉行)の次女雅と結婚します。
海外渡航や江戸・京都で尊王攘夷運動に参加する
文久元年(1861年)、晋作は海軍修練のために丙辰丸に乗船して江戸へ向かいます。
途中寄港した神奈川では英国公使館焼き討ち事件が発生しました。
この事件は、イギリス公使館が建設中であった品川御殿山で、高杉晋作ら長州藩士10余人が放火したものです。
高杉晋作は、幕府に対する攘夷断行の圧力をかけるためにこの行動に出ました。
文久2年(1862年)、晋作は江戸から京都へ向かいました。そこで尊王攘夷運動の中心地となっていた京都で、同志と交流しました。
文久3年(1863年)、晋作は奇兵隊を結成しました。
奇兵隊は、長州藩士だけでなく、他藩何藩と言った縛りはなく浪人や町人なども加わった自由な組織でした。
彼らは幕府や外国勢力と戦うために活動しました。
幕末の英雄として名声を残す、その生涯
晋作は奇兵隊を率いて、幕末の激動期に数々の歴史的事件に関わりました。その中でも特に有名なものは以下の通りです。
・下関戦争:元治元年(1864年)6月から9月にかけて行われた四カ国連合艦隊(イギリス・フランス・アメリカ・オランダ)と長州藩との戦闘です。
・第二次長州征討:元治元年(1864年)10月から慶応元年(1865年)1月にかけて行われた幕府軍と長州藩との戦闘です。
これらの戦闘では、晋作はその英雄的な指揮ぶりや剛毅果敢な性格で多くの人々から尊敬されました。
また、彼は自分だけでなく部下や同志も大切にする姿勢や人情味あふれる言動でも知られていました。
しかし、高杉晋作はその活躍ゆえに簡単に敵もつくりました。
特に幕府側からは恨み辛みを買っており、暗殺計画も何度度もあったと言われています。
高杉晋作は慶応2年(1866年)9月に萩へ帰りましたが、その頃から病気が悪化し始めました。
彼は肺結核を患っており、当時それは簡単に治る病ではありませんでした。
それでもなお、彼は長州藩の政治改革や幕府との交渉などに尽力しました。
しかし、晋作の命は長くありませんでした。
慶応3年(1867年)5月10日、彼は萩城下の小さな家屋で息を引き取りました。
享年29歳でした。
高杉晋作は幕末期における最も優れた革命家の一人として評価されています。
彼は自分の信念に基づいて行動し、時代を変える力を持っていました。
また、彼は多くの人々から尊敬され愛される人物でもありました。
高杉晋作の生涯を振り返ると、彼が何藩でどんな活躍をしたかが分かります。
彼は長州藩士として学び成長し、海外渡航や江戸・京都で尊王攘夷運動に参加し、幕末の英雄として名声を残しました。
高杉晋作は日本史上に残る偉大な人物です。
以上、簡単に高杉晋作の生涯を振り返ってみました。