高杉晋作といえば、幕末の長州藩の尊王攘夷志士として知られていますが、彼はどんな人だったのでしょうか。
性格やプロフィールから、彼の生涯を振り返ってみましょう。
高杉晋作ってどんな人?幼少期のプロフィール編
高杉晋作は1839年9月27日、長州藩の上級武士である父・小忠太と母・ミチの長男として生まれました。
幼い頃から負けん気が強い性格で、剣術にも熱心に取り組みました。
10歳の時には天然痘を患いましたが、家族の献身的な看護で一命を取り留めました。
しかし顔に傷跡が残り、「あずき餅」と呼ばれることもありました。
高杉晋作は正義感も強く、自分や仲間に不利益を与える者には容赦しませんでした。
例えば、遊んでいた自分の凧を通りかかった武士が踏みつけて壊した時には、大人相手に土下座させたというエピソードがあります。
また、近所の寺に飾られていた天狗のお面を他の子供たちが怖がる中でも平気で見ていたという話も残されています。
すでに、幼少期の性格からも分かるような破天荒な人生がスタートしました。
吉田松陰と出会い尊王攘夷思想に目覚める
14歳になった高杉晋作は藩校・明倫館に入学しましたが、決まりきった授業内容に興味を持ちませんでした。
そこで19歳の時に吉田松陰が主宰する私塾・松下村塾へ入りました。
吉田松陰は若くして長州藩きっての秀才と言われていた思想家であり、黒船来航後に密航を企てて捕らえられていました。
高杉晋作は吉田松陰から尊王攘夷思想や西洋事情などを学びます。
また久坂玄瑞や伊藤博文など多くの優秀な同志と出会い切磋琢磨します。
上海渡航で西洋文明の衝撃を受ける
高杉晋作は文久2年(1862年)、幕府の使節随行員として上海に渡航しました。
この時、同行した薩摩藩の五代友厚とは親交を深め、攘夷運動や倒幕運動について密談したと言われています。
上海では、清国が欧米列強に屈服し、植民地化されつつある現状を目の当たりにしました。
外国人が建てた洋館や教会、蒸気船や鉄道などの西洋文明の進歩にも驚きましたが、それだけではなく、中国人が外国人に虐げられている姿や太平天国の乱などの混乱も見聞しました。
高杉晋作は日記『遊清五録』に、「西洋文明は道具である」と書き残しています。
彼は西洋文明を単なる物質的な発展としてではなく、その背景にある精神的な力や理念を見抜いていたのです。
また、「幕府は屁のようなものかもしれん」とも記しており、日本が西洋列強に対抗するためには幕府を倒す必要があると確信したことが伺えます。
幼少期のプロフィールから見る強気の性格も衰えていません。
高杉晋作はどんな人?それは幕末の英雄です。
高杉晋作は幕末の長州藩の尊王攘夷志士として、倒幕運動に大きな影響を与えた人物です。
彼は日本を強くするためには幕府を倒して国家統一を図る必要があるとも考えました。
彼は奇兵隊を結成して身分や格式にこだわらず志願兵から成る部隊を率いて戦闘に参加しました。
奇兵隊は下関戦争や第一次長州征伐では苦戦しましたが、第二次長州征伐では大活躍して長州藩の勝利に貢献しました。
高杉晋作はその後も倒幕運動を推進しようとしましたが、慶応3年(1867年)5月17日に肺結核で死去しました。享年29歳でした。
高杉晋作は幕末の英雄として多くの人々に敬愛されています。
彼は自分の信念に従って行動し、時代の変革に貢献した人物です。
以上から、高杉晋作どんな人か少しでもご理解いただければうれしいです。
性格、プロフィールを読み取り、現在の私たちにも生かされることは多々あると思っています。