幕末の長州藩を率いた尊王攘夷の志士、高杉晋作。
彼は若くして亡くなりましたが、その後の子孫はどうなったのでしょうか?
家系図から辿ってみます。
高杉晋作の家系と名前の由来
高杉晋作は、戦国時代から毛利氏に仕えて藩政に関わる要職を歴任した高杉氏の出身です。
家系図を見ると高杉晋作は高杉家13代目当主にあたります。
高杉家のルーツは武田家にあると言われおり、高杉家の家紋は「丸に武田菱」が現在も用いられています。
ただし詳細は分かっておらず、武田家から高杉家に繋がる家系図は存在していません。
高杉晋作の父は、長州藩士で大組(200石)の高杉小忠太、母は大西将曹の娘で道子といいました。
高杉晋作は、1839年に長門国萩城下で生まれました。
晋作という名前は、実は通称であり、本名は春風(はるかぜ)といいました。
高杉晋作の激動の人生を思うと「春風」という名前は、少しマッチしていないような気がします。
また、字は暢夫(ちょうふ)、号は楠樹や東行(とうぎょう)などを名乗りました。
東行という号は、「西へ行く人をしたひて東行くわが心をば神やしるらむ」という歌から取ったものです。
高杉晋作は、幕末の長州藩を率いた尊王攘夷の志士として活躍しましたが、27歳の若さで病死しました。
その後の子孫はどうなったのでしょうか?
高杉晋作の妻と妾、そして一人息子
高杉晋作には正妻として井上平右衛門の次女・雅(まさこ)がいました。
雅は萩城下一の美人と呼ばれ、16歳で22歳の晋作に嫁ぎました。
高杉晋作は妻に対して敬愛の情を持ち、手紙や贈り物で気遣っていましたが、激動の時代に身を投じていたため、実際に一緒に過ごした時間はわずかでした。
高杉晋作には妾として下関の芸妓おうのがいました。
おうのは、高杉晋作が命の危険から四国などに身を潜めていたときに伴っており、晋作が重病になったときも看病していました。
しかし、高杉晋作の最期を看取ったのは正妻の雅でした。
おうのはその後、高杉家から金銭的な援助を受けて下関で暮らしたと言われています。
晋作と雅の間には一人息子・東一(とういち)が生まれました。
東一は父の死後、母や祖父母とともに山口市に移り住み、明治10年に上京しました。
東一は、商法講習所(現在の一橋大学)を経て、外交官になりました。
その後、伊藤博文に従って外国へ渡航します。
海外駐在中には英和新国民大辞典を編纂し、業績を評価されました。
東一は大正2年に死去しましたが、東一の子孫は現在も存続しています。
高杉晋作の家系図から子孫の現在とその活躍をみる
高杉晋作は幕末の長州藩の尊王攘夷志士として活躍し、奇兵隊を結成して倒幕運動に貢献しましたが、27歳の若さで亡くなりました。
彼には妻の雅子との間に一人息子・東一がいましたが、その後の子孫はどうなったのでしょうか?
高杉晋作の息子・東一は外交官として活躍し、4人の子供に恵まれましたが、3人は早世しました。
現在の高杉家の当主は晋作の曾孫・力さんとのことです。
また、高杉晋作の子孫と言われる益子早苗さんはベトナムでピザレストランを経営しています。
彼女の店のロゴは高杉家の家紋「丸に武田菱」をアレンジしたものと言われています。
他にも、漫画家の金田一蓮十郎さんが高杉晋作の子孫ではないかと言われています。
彼女は『ジャングルはいつもハレのちグゥ』で人気を博した人物です。
高杉晋作は「おもしろきこともなき世をおもしろく」という辞世の句を残しましたが、その志は現代でも受け継がれているようです。
彼らはそれぞれの分野で挑戦し、世界中に笑顔を増やそうとしています。