幕末の長州藩の尊王攘夷志士として活躍し、奇兵隊を結成して倒幕運動に方向付けた高杉晋作。
彼は兵学や剣術に秀でただけでなく、外国との交渉や軍事戦略にも優れた才能を発揮しました。
今回は、高杉晋作の生涯にまつわる逸話を紹介します。
天然痘を克服した少年時代から吉田松陰との出会い
高杉晋作は、長州藩士の家に生まれましたが、幼いころに天然痘にかかりました。
家族が必死に看病し、蘭学医の青木周弼や能美洞庵にも往診を頼みました。
高杉晋作は奇跡的に一命を取り留めましたが、顔にあばたが残り、「あずき餅」とあだ名されました。
しかし、この経験は高杉晋作の生命力や精神力を鍛えることになりました。
高杉晋作は寺子屋や藩校明倫館で学びましたが、学問にあまり興味なく剣術に打ち込んでいました。
高杉晋作は、1857年に吉田松陰が主宰していた松下村塾に入りました。
吉田松陰は、長州藩の兵学師範でありながら、幕末の動乱期に尊王攘夷の思想を唱える志士でした。
高杉晋作は、吉田松陰から尊王攘夷の理念や兵学を学び、久坂玄瑞や入江九一とともに松下村塾四天王と呼ばれるようになりました。
高杉晋作は、吉田松陰の影響で海外渡航を志し、1862年に長崎から上海へ渡りました。
そこで見た清国の植民地化や太平天国の乱は、高杉晋作の心に深い衝撃を与えました。
帰国後、高杉晋作は尊王攘夷運動に加わり、江戸や京都で幕府や外国と対立する行動を起こしました。
しかし、これらの行動は長州藩から脱藩罪や投獄などの処分を受けることになりました。
奇兵隊の結成から功山寺挙兵
高杉晋作は、長州藩主より防衛力強化の対策案のために、身分に関係なく志願兵を募った奇兵隊を創設しました。
しかし高杉晋作は、長州藩の正規隊との衝突で起きた教法寺事件の責任を取らされ、わずか3カ月で総督を更迭されます。
1864年、下関戦争が起こります。
長州藩の下関や彦島に砲撃の雨を振られせ、長州藩を圧倒します。
その戦争の講和において講和使節を任命されたのが、高杉晋作です。
彼は連合国側の要求である、賠償金と彦島租借を巧みな交渉術で講和をまとめました。
その堂々たる態度に、まるで魔王のようであったとの逸話が残されています。
その後発生した、第一次長州征伐により長州藩は幕府に恭順する政治を推し進めます。
抗戦派の高杉晋作は、同じ抗戦派の同志が次々と命を狙われ状況に危機を覚え、筑前国に潜伏しました。
そこで、志士たちと連絡を取り合い、長州藩の改革を目指しました。
文久4年(1864年)8月、高杉晋作は力士隊や遊撃隊の志願兵約80人を率いて長州藩内に侵入し、功山寺挙兵を起こしました。
わずか80名での挙兵でしたが、高杉晋作は全く臆することなく、ひとりでもクーデターを起こす勢いだったとの逸話もあります。
高杉晋作は、三田尻で藩の軍艦3隻を奪取に成功します。
この挙兵に呼応して、長州藩内の多くの志士や諸隊が高杉晋作のもとに集まり、恭順派の藩政を打倒しました。
その後、第二次長州征伐では奇兵隊とともに幕府軍に圧倒し、新時代への幕開けを予感させます。
身分や立場にとらわれず新時代を切り開いた高杉晋作の生涯
高杉晋作は、日本の近代化に大きく貢献した幕末の英雄です。
海外に目を向け、西洋の兵法や学問を学び、身分や立場にとらわれない志士たちと協力して新しい時代を切り開きました。
外国との交渉では、自分たちの利益を守るために機転を利かせ、藩政では、旧来の体制を打破して改革を推進しました。
幕府との戦闘では、奇兵隊という革新的な部隊を率いて勝利を収めました。
数々の逸話を残しながら、惜しくも27歳という若さで病に倒れてしまいました。
高杉晋作の精神は、今の私たちにも多くの教えやヒントを与えてくれるでしょう。