幕末の志士として知られる高杉晋作は、桂小五郎という兄貴分がいました。
桂小五郎は高杉晋作の才能を見抜き、彼を支えるとともに、新選組の襲撃を予見していたのか?
一体どんな人物だったのでしょうか?
この記事では、桂小五郎の生涯と高杉晋作との関係について紹介します。
桂小五郎と高杉晋作の出会い
桂小五郎と高杉晋作は、ふたりとも吉田松陰の弟子でした。
桂小五郎は山鹿流兵学を吉田松陰から学び、高杉晋作は松下村塾で学んだのです。
高杉晋作も桂小五郎も吉田松陰を尊敬し、仕えたといわれています。
二人は幕末の動乱期に長州藩の中心人物となりますが、その前にも何度か顔を合わせていました。
例えば、1858年には江戸で会っています。
この時、桂小五郎は江戸で活動しており、高杉晋作は長州藩の藩命により江戸へ遊学していました。
吉田松陰から桂小五郎の評判を聞いていた高杉晋作は、桂小五郎を信頼します。
また、1861年には暴走気味の高杉晋作が長井雅楽の暗殺を企てます。
その様子に、桂小五郎は上海留学を提案し、興味を逸らすことに成功します。
それ以外にも、高杉晋作が外国の公使を暗殺しようとしたり、脱藩したりと、たびたび桂小五郎が説得をしていたようです。
桂小五郎が新選組の襲撃を予見した?
1864年、桂小五郎は新選組の襲撃に遭遇するところでした。
その理由は何だったのでしょうか?
桂小五郎はこの年、長州藩京都留守居役として活動しておりました。
しかし、この頃から朝廷内では尊王攘夷派が台頭し始めており、長州藩もその一員として目を付けられるようになっていました。
特に新選組は長州藩や尊王攘夷派を敵視しており、京都で暗躍していました。
桂小五郎は新選組の存在や活動を知っており、彼らが長州藩や尊王攘夷派の首謀者と目されていました。
そして池田屋事件が起こります。
長州藩や土佐藩等の尊王攘夷志士が池田屋で会合していた時に事件は起きました。
しかし、桂小五郎は会合に早く着きすぎたため、一旦別の場所へ移ったと言われております。
その間に新選組が池田屋を襲撃し、桂小五郎は難を逃れました。
しかし、このことは後に諸説が生まれることになります。
彼が池田屋に到着した時には、他の志士たちも既に到着していた。
すなわち、桂小五郎は何か嫌な気配などを予見し、一旦別の場所に移動した可能性もあります。
他にも、新選組襲撃時に桂小五郎も居合わせたが、素早く屋根伝いに逃げたとの諸説もあります。
どちらにせよ桂小五郎が新選組の襲撃で、暗殺されていたら時代は大きく変わったものになっていたかもしれません。
また池田屋事件の一年前には、高杉晋作も京都で潜伏活動をしていた。
彼も巻き込まれていたら、明治維新の流れも大きく遅れていたかもしれません。
桂小五郎は池田屋事件から逃れた後、どのようにして長州藩の再起を図ったのでしょうか?
彼は事件後、対馬藩邸から長州藩邸に移りましたが、そこも新選組や幕府軍に包囲されていました。
彼は変装して脱出し、京都市内を逃げ回りました。
その後、桂小五郎は恋人の幾松や対馬藩士らの協力を得て、但馬出石にて潜伏します。
そんな中、長州藩は朝敵になってしまう危機的状況に、高杉晋作は桂小五郎の居場所を探りました
何とか居場所を知った高杉晋作は、桂小五郎に対し手紙で、すぐ帰藩するよう求めます。
そして、高杉晋作らと協力して、藩内の改革や兵備の強化を推進しました。
1866年に桂小五郎は京都で、西郷隆盛らと会見して薩長同盟を締結しました。
これにより長州藩は幕府からの攻撃に備えました。
池田屋事件で難を逃れた桂小五郎の功績
池田屋事件は幕末の歴史上、重要な事件です。
新選組が尊王攘夷派の志士たちを殺傷・捕縛したことで、幕府は朝廷や長州藩に対して威信を回復しようとしました。
しかし、この事件で難を逃れた桂小五郎は、その後も長州藩の再起と倒幕運動に尽力しました。
桂小五郎は以下のような功績を残しました。
・長州藩内で尊王攘夷派の勢力を強め、幕府への降伏を拒否する方針を確立した。
・高杉晋作と協力して、藩内の改革や兵備の強化を推進した。
・薩摩藩との同盟を重視し、自ら京都に赴き、西郷隆盛らと会見して薩長同盟を締結した。
・薩摩藩と協力して幕府軍を撃退し、明治維新の実現に貢献した。
・新政府では参議や内務卿などの要職に就き、五箇条の御誓文や版籍奉還など、近代日本の基礎作業に主導的役割を果たした。
桂小五郎は明治維新の元勲「木戸孝允」と名を変え、大久保利通や西郷隆盛と並び称される人物です。
高杉晋作亡き後、彼は幕末から明治初期にかけて日本の歴史に大きな影響を与えました。
高杉晋作の志は、きっと彼らの胸の中にあったでしょう。