高杉晋作といえば、幕末の志士として活躍した人物ですが、実は留学経験も持っていました。
江戸遊学から上海留学まで、高杉晋作の意外な学びの旅を紹介します。
彼の留学日記から見える、当時の日本と世界の様子や、高杉晋作の人間性に迫ります。
江戸遊学で学んだこととは?
高杉晋作は20歳のときに藩命により江戸へ遊学しました。
遊学とは、他の地域へ赴き、その土地の考えや風土、教え等を学んでくることです。
国内留学と表されることもあります。
そこで幕府直轄の学校である昌平坂学問所や大橋塾などで学問を学びました。
しかし、高杉晋作はライバルであり親友の久坂玄瑞に「江戸の学問はつまらない」と手紙で漏らしていたそうです。
また剣術には熱心で、練兵館道場で神道無念流を修めました。
江戸や東北遊学も経て、各地の志士たちとも交流し、尊王攘夷の思想を深めていきました。
高杉晋作は遊学中に自らの日記をつけており、その中には当時の政治情勢や文化風俗に対する感想や批評が書かれています。
高杉晋作は遊学を通して、自分の知識や見識を広げるとともに、日本の将来について考えるきっかけを得たのです。
上海留学で目にしたものとは?
高杉晋作は23歳のときに藩命により上海へ渡航しました。
これは幕府使節随行員として清国に派遣されたものでした。
高杉晋作は上海で清が欧米列強に植民地化されていく現実や、太平天国の乱を目撃しました。
これらは高杉晋作に強い衝撃を与えました。
また、近代化された外国船や武器にも驚き、このままの日本では外国に全く及ばないと悟ります。
高杉晋作は上海滞在中にも日記をつけており、その中には清国の社会状況や今後の日本を危ぶむことなどが書かれています。
高杉晋作は上海留学を通して、日本が直面する危機感や攘夷実行の必要性を痛感したのです。
高杉晋作の留学から学ぶこと
高杉晋作は幕末期に江戸・東北遊学と上海留学を経験しました。
その中で多くのことを学び、自分の思想や行動に反映させました。
高杉晋作は留学先で見聞したことを日記に記録し、後世に残しました。
彼は留学先での経験をもとに、長州藩の尊王攘夷運動に大きな影響を与えました。
奇兵隊を結成して下関戦争や幕府との戦いに挑み、倒幕の先駆者となりました。
四国連合艦隊との講和では、高杉晋作が講和使節として彦島の租借を頑なに拒否します。
租借とは名ばかりで、いずれ植民地化され、欧州列強による支配を恐れます。
それは上海留学で感じた、危機感から来るものでした。
高杉晋作は27歳という若さで病没しましたが、その生涯は多くの人々に感動や刺激を与えました。
高杉晋作の留学日記は、幕末の歴史を知る上で貴重な資料です。
また、異国の文化や思想に触れて自分の視野を広げることの大切さも教えてくれます。