幕末の英雄として知られる高杉晋作について、彼が襲われた病気や最後の姿、辞世の句などについて解説します。
高杉晋作はどんな人物だったのでしょうか?
彼の生涯を振り返りましょう。
高杉晋作が患った病気は結核だった
高杉晋作が亡くなった原因は結核によるものでした。
結核という病気は、今では治療法が確立されていますが、当時は不治の病とされており、多くの人々が命を落としていました。
例えば、新撰組の沖田総司も結核で亡くなっています。
高杉晋作は幼少期から体が弱かったそうです。
10歳の時に天然痘という病気にかかりました。
当時、天然痘は不治の病とされておりましたが、祖父母や家族の献身的な看病により、一命を取り留めました。
しかし、あばた(皮膚にぶつぶつと小さなくぼみが残ること)が残ったことから「あずき餅」と呼ばれていました。
高杉晋作は成長すると攘夷運動や奇兵隊活動などで活躍しましたが、その過程で体力を消耗しました。
1866年(慶応2年)に起きた第二次長州征伐では、幕府軍を撃退する大功を挙げましたが、この戦闘中から吐血するようになりました。
高杉晋作の最後の姿
喀血した後も酒をやめなかった高杉晋作ですが、次第に体調が悪化しました。
1866年(慶応2年)10月から下関郊外の桜山にある小さな家屋で静養生活に入りました。
愛人おうのや女流歌人だった野村望東尼も看病してくれました。
おうのさんと野村望東尼さんは仲良しだったそうです 。
しかし、静養生活でも病気が回復する兆しが見られず、1867年(慶応3年)4月14日に享年29歳でこの世を去りました 。
維新に命を注いだ彼でしたが、大政奉還後の新しい時代を見ることはできませんでした。
高杉晋作は死の間際に有名な辞世の句を詠みました 。
おもしろき事もなき世をおもしろく
すみなすものは心なりけり
これは「面白いこともない世の中を面白くするのは、結局は自分の心次第だ」という意味です。
しかし、実はこの句は高杉晋作と野村望東尼さんの合作だったと言われています。
高杉晋作が上の句を詠んだ後、野村望東尼さんが下の句を詠んだということです。
また、この句には「おもしろき事もなき世におもしろく」という別バージョンがあるという説もあります。
どちらが正しいかは定かではありませんが「を」の方が高杉晋作らしい気がします。
高杉晋作から学ぶこと
高杉晋作は短く激しい人生を送りました。
彼は自分の信念や理想を貫き通しましたが、それだけではなく柔軟性や創造性も持ち合わせていました。
彼は時代や状況に応じて変化することを恐れませんでした。
また、彼は自分だけではなく仲間や民衆を大切にしました。
彼は奇兵隊や長州藩士たちと共に戦いましたが、
「百万の大群 恐るるに足らず 恐るるべきは我ら 弱き民一人一人の心なり」
という名言からも分かるように、一人一人が気力満々であることを重視しました。
以上、高杉晋作を襲った病気とその最期について見てきました。幕末の英雄だった彼ですが、その生涯や思想は今でも私たちに影響を与えています。