高杉晋作

高杉晋作コラム

高杉晋作と木戸孝允の関係を知れば幕末が面白くなる!

高杉晋作と木戸孝允は、長州藩の維新志士として知られる人物で、明治維新の成功に大きく貢献しました。

二人は互いをどのように思っていたのでしょうか。

二人の関係を探ると、幕末がもっと面白くなります。

 

高杉晋作と木戸孝允は兄弟弟子だった

木戸孝允は1865年まで桂小五郎として活躍しました。

木戸孝允と桂小五郎は同一の人物です。

 

高杉晋作と木戸孝允は、共通の師匠を持っていました。

それは吉田松陰です。

 

吉田松陰は、長州藩では藩校・明倫館や私塾・松下村塾で多くの門下生を育てました。

高杉晋作は明倫館や松下村塾で吉田松陰から学びました。

高杉晋作は剣術や奇策に優れた武人でしたが、自ら政治に向いていないことを自覚していました。

木戸孝允は明倫館で吉田松陰から兵学を学びました。

 

木戸孝允は実際には松下村塾に通っておらず、正式な門下生ではありませんでしたが、吉田松陰から厚く信頼されていました。

木戸孝允は政治や外交に長けた知恵者でした。

二人は同じ師匠から教えを受けたこともあり、互いに尊敬し合っていました。

高杉晋作からみれば木戸孝允は先輩にあたりますが、高杉晋作が長州藩の実権を握った功山寺挙兵後も、木戸孝允を藩政の中心人物として迎え入れることを望んでいました。

木戸孝允も高杉晋作の武功や奇才を認めており、 長州征伐では共闘して幕府軍に勝利しました。

二人は明治維新を推進する両輪として欠くことのできない存在だったのです。

 

高杉晋作と木戸孝允は新選組と敵対した

高杉晋作と木戸孝允は、京都での尊王攘夷運動の中心人物として、幕府の警備隊である新選組と敵対しました。

新選組は、近藤勇や土方歳三が率いた浪士組から分派して結成された特殊部隊で、京都の治安維持や朝廷への影響力を拡大することを目的としていました1。

高杉晋作は、文久3年(1863年)に下関戦争で外国艦隊に敗れた後、脱藩して京都に潜伏しました。

 

そこで木戸孝允や久坂玄瑞らと合流し、長州藩の復権を目指しました。

しかし、同年8月18日に起きた八月十八日の政変で長州藩は朝廷から追放されて朝敵となりました。

この政変では新選組も重要な役割を果たしました。

新選組は会津藩や薩摩藩などの公武合体派に協力して長州藩の尊攘派を排除することに成功しました。

 

この時、新選組は池田屋事件で木戸孝允ら長州藩士を捕らえようとしましたが、逃げ延びることができました。

その後も木戸孝允は京都周辺で活動を続けましたが、新選組から執拗に追われることになります。

文久4年(1864年)7月19日に起きた禁門の変では長州藩が再度挙兵しましたが、幕府や公武合体派の連合軍に敗北しました。

 

高杉晋作と木戸孝允の関係から学ぶこと

高杉晋作と木戸孝允の関係から学ぶことは何でしょうか?

 

一つは同じ師匠から学んだ仲間でもありライバルでもあった二人が、それぞれ自分の道を歩んだことです。

高杉晋作は武力で幕府に挑み、木戸孝允は政治や外交で幕府に対抗しました。

二人は互いに尊敬し合っていましたが、同時に競い合ってもいました。

二人の関係は、幕末の激動の中で成長した志士たちの姿を象徴しています。

 

もう一つは新選組と敵対したことで、幕末の混沌とした状況を知ることができることです。

新選組は幕府に忠誠を誓って京都の治安を守りましたが、その中にも尊王攘夷派や倒幕派の志士たちがいました。

新選組と高杉晋作や木戸孝允ら長州藩士の戦いは、幕末の思想や立場の対立を表しています。

 

高杉晋作と木戸孝允の関係を知れば、幕末が面白くなることでしょう。

二人は明治維新に大きく貢献しましたが、その後も日本の近代化や国際化に影響を与えました。

高杉晋作は奇兵隊や軍隊制度などで日本の軍事革命を起こしました。

木戸孝允は明治政府では内務卿や外務卿などを歴任し、西南戦争では西郷隆盛ら反乱軍と戦いました。

二人は日本史上最も偉大な政治家、革命家、思想家、教育者、外交家、文化人など多面的な才能を発揮した人物です。

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