幕末の長州藩には、武士だけでなく、農民や町人も参加できる自由な軍隊がありました。
それが高杉晋作が創設した奇兵隊です。
奇兵隊はどのようにして生まれたのでしょう?
そして、どんな活躍をしたのでしょうか?
今回は、高杉晋作と奇兵隊について紹介します。
奇兵隊とは
1863年5月10日、幕府が朝廷から要請されて制定した攘夷期限が過ぎると、長州藩は関門海峡で外国船を砲撃しました。
しかし逆に米仏など四カ国連合艦隊から報復されて惨敗しました。
これが下関戦争です。
この時、高杉晋作は下関防衛を任されていましたが、武士だけでは不十分だと考えていました。
そこで彼は身分や格式を問わず志願者を募って新たな部隊を結成しました。
それが奇兵隊です。
奇兵隊は武士以外の人々も動員した画期的な戦略でした。
「奇兵」という言葉は武士のみで成り立つ正規兵ではなく非正規兵という意味です。
「奇」は「珍しくて目立つ」という意味もあります。
奇兵隊は白石正一郎邸や赤間神宮近くの阿弥陀寺などを拠点として活動しました。
最初は約50人程度だったそうですが、次第に増えて諸隊を入れると数千人規模になりました。
奇兵隊の活躍と末路
奇兵隊は、西洋式の兵法や最新の銃を取り入れて訓練に励みました。
高杉晋作は、志を持った彼らの方が堕落した武士よりも戦力になると考えていました。
奇兵隊は、1864年の禁門の変や第一次長州征伐などで幕府軍と戦いました。
特に第二次長州征伐では、奇兵隊を含む長州藩諸隊が幕府軍を圧倒して勝利しました。
1867年に大政奉還が行われて江戸幕府が廃止されると、奇兵隊は新政府軍の一部となって旧幕府軍との戊辰戦争で戦いました。
しかし明治維新後、長州藩では藩政改革が行われて奇兵隊ら諸隊の処置に不満を抱く者たちが反乱を起こしました。
これが脱隊騒動です。
高杉晋作はこの騒動に対処することなく、1867年5月17日に結核で死去しました。
彼の死後も奇兵隊は存続しましたが、1871年に廃止されました。
高杉晋作と奇兵隊の意義
高杉晋作と奇兵隊は、幕末から明治維新にかけて日本の歴史に大きな影響を与えました。
彼らは身分や格式に囚われずに自由な発想で行動し、尊王攘夷・倒幕運動を推進しました。
彼らは西洋式の兵法や最新の銃器を積極的に取り入れて訓練し、優れた戦闘力を発揮しました。
彼らは武士だけでなく農民や町人も参加させて民主的な組織づくりを行いました。
彼らは日本初の近代的な常備軍と言えるかもしれません。
高杉晋作と奇兵隊は今でも多くの人々から尊敬されています。
彼らは時代や環境に合わせて柔軟に変化することや自分たちで考えて行動することの大切さを教えてくれます。