幕末の動乱期に活躍した長州藩の志士、高杉晋作。
彼は奇兵隊を結成し、幕府に対して果敢に戦いを挑みました。
高杉晋作の生き方と長州征伐の経緯から、リスクを恐れず挑戦する意味を考えてみましょう。
高杉晋作とはどんな人物だったのか
高杉晋作は、1839年に長州藩士の家に生まれました。
幼少期に天然痘にかかり、顔にあばたが残りましたが、それを気にせずに勉学に励みました。
藩校の明倫館で学んだ後、吉田松陰の松下村塾に入り、尊王攘夷の思想に傾倒しました。
江戸や上海に遊学、留学し、幕末の情勢を見聞しました。
師の吉田松陰が処刑された後は、桂小五郎や久坂玄瑞らとともに尊攘運動に関わります。
長州討伐による激しい攻防戦
長州征伐とは、幕府が長州藩を討伐するために行った二度の戦争を意味します。
一度目の長州征伐時、高杉晋作は脱藩の罪により投獄、自宅謹慎中でした。
二度目の長州討伐は別名「四境戦争」とも言われます。
第一次長州征伐は、1864年に行われました。
これは、長州藩が前年に起こした禁門の変(京都宮殿への侵入)や下関戦争(外国船への砲撃)などの反幕府・反朝廷的な行動に対する処罰として行われました。
しかし、この戦争では実際に戦闘が起こることはありませんでした。
長州藩は幕府軍が進撃する前に降伏します。
この第一次長州征伐や四国艦隊下関砲撃事件によって長州藩内では幕府に対して、抗戦派は正義派と恭順派の俗論派に分かれることとなります。
正義派のリーダーは高杉晋作でした。
幕府の言いなりの俗論派について、面白くない高杉晋作は伊藤博文らと功山寺で挙兵し、俗論派打倒を掲げます。
その後、見事長州藩内の俗論派の家老たちを追放し、高杉晋作は長州藩の実権を握ることになります。
それを聞いて面白くないのは幕府側です。
それならばと、再度長州征伐を掲げ、第二次長州征伐が始まります。
この戦争は、1866年(慶応2年)に行われました。
幕府は尾張藩主の徳川茂徳を総督とし、西国の諸藩に出兵命令を出しました。
しかし、薩摩藩は長州藩との薩長同盟を守って出兵を拒否しました。
長州藩は、外国から手に入れた新式兵器を効果的に使い、大村益次郎や高杉晋作を中心として奮戦しました。
幕府軍は各所で長州軍に敗れ、将軍の徳川家茂も大坂城で病死しました。
徳川慶喜は休戦を提案し、第二次長州征伐は失敗に終わりました。
高杉晋作が功山寺挙兵で藩政を改革し、奇兵隊や力士隊などの新式兵制で幕府軍を圧倒した結果となりました。
高杉晋作から学ぶリスクを恐れず挑戦する意味
高杉晋作は、自らの信念に基づいてリスクを恐れず挑戦する人物でした。
彼は幕府や外国と対立することで自分や仲間の命を危険にさらしましたが、それでも日本の未来のために戦い続けました。
彼は自分の立場や身分を捨てても自由な行動を取りました。
彼は旧来の制度や思想に囚われずに新しいものを取り入れました。
彼は敵である幕府や外国からも敬意と評価されました。
高杉晋作は、自分の信念に従って行動し、日本の近代化に大きな影響を与えた人物です。
彼の生き方から、リスクを恐れず挑戦する意味を学ぶことができます。