高杉晋作と桂小五郎は、幕末の長州藩を代表する維新志士でした。
二人は互いに尊敬し、協力して明治維新のために奮闘しました。
しかし二人の関係には、師である吉田松陰の影響が大きくありました。
そして吉田松陰は自らの処刑直前に、高杉晋作に宛てた最期の手紙が、高杉の決意を固めるきっかけとなったのです。
吉田松陰から高杉晋作への最期の手紙
安政6年(1859年)、吉田松陰は幕府クーデター計画に関与したとして捕らえられ、伝馬町牢屋敷に収監されました。
そこで彼は多くの手紙や詩歌を書き残しました。
その中には、高杉晋作に宛てたものもあります。
高杉晋作は江戸に出発する際に、吉田松陰から「桂小五郎は吾の重んずるところなり」という一文を含む手紙を受け取りました。
この手紙は、吉田松陰が桂小五郎を高く評価し、信頼していることを示しています。
桂小五郎が長州藩の中心人物となりうることを予見しています。
また、この手紙だけではなく吉田松陰は自らの処刑直前にも、高杉晋作に宛てた最期の手紙で送っています。
「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし」
この言葉は、吉田松陰と高杉晋作の師弟関係や幕末の激動の時代を象徴するものとして有名なものとなっています。
桂小五郎が高杉晋作を迎えに行った?
高杉晋作は英国公使館焼き討ち事件後、突然10年の暇を願い出ると頭を丸め僧形になるという破天荒な行動をとります。
その間に京都では八月十八日の政変が起こり、長州藩が朝廷から追放されました。
この時、高杉晋作は脱藩しており京都で潜伏生活を送っていました。
しかし、その居場所は幕府や他藩にも知られており、危険な状況でした。
そこで桂小五郎は高杉晋作をを探し求めることにしました。
桂小五郎の説得により高杉晋作は萩に帰郷しますが、脱藩の罪により野山獄に投獄されてしまいます。
その後、高杉晋作は出所し自宅謹慎処分を受けることになりますが、時代の流れは止まりません。
長州藩は禁門の変で敗北して朝敵なり、さらには高杉晋作とともに松下村塾の双璧と呼ばれた久坂玄瑞が自刃してしまいます。
さらには四国艦隊下関砲撃事件が起こり、長州藩は危機的状況を迎えることとなります。
結果、高杉晋作の活躍もあり、また桂小五郎は名を「木戸孝允」と改め、坂本龍馬らと接触し二人は明治維新を推進する両輪として欠くことのできない存在となっていったのです。
高杉と桂の友情と師弟愛
高杉晋作と桂小五郎は、幕末の長州藩を代表する維新志士でした。
二人は互いに尊敬し、協力して明治維新のために奮闘しました。
しかし、二人の関係には、師である吉田松陰の影響が大きくありました。
吉田松陰は桂小五郎を高く評価し、信頼していたのです。
そして、吉田松陰は自らの処刑直前に、高杉晋作に宛てた手紙で桂小五郎を重んずるように伝えました。
この手紙が、高杉晋作の決意を固めるきっかけとなったのです。
高杉晋作は武においてその才能を遺憾なく発揮しましたが、智においては桂小五郎を頼りにしました。
高杉と桂の友情は、師である吉田松陰の言葉や手紙から始まりましたが、それ以上に深く強く結ばれました。
二人は互いを補完し合う存在であり、明治維新の原動力でした。
二人のように互いに信頼し、協力し合うことが大切であることや、自分の得意な分野や向いている役割を見極めることが必要であることなどが挙げられるでしょう。
高杉晋作と桂小五郎は、幕末の長州藩を代表する維新志士でしたが、それ以上に師弟愛と友情に満ちた人物でした。
彼らの生き様は、今もなお私たちに多くの教えを与えてくれます。