高杉晋作

高杉晋作コラム

高杉晋作と伊藤博文が歩んだ幕末。夢を追った二人の関係とは?

幕末の志士であり、明治維新の立役者でもある高杉晋作と伊藤博文についてお話ししたいと思います。

この二人は、どのような出会いをし、どのような関係を築き、どのような影響を与え合ったのでしょうか?

 

高杉晋作と伊藤博文の出会い

高杉晋作と伊藤博文は、共に長州藩(現在の山口県)出身であり、尊王攘夷(そんのうじょうい)の志士として活動しました。

高杉晋作は、長州藩の中級武士の長男として生まれ、御家柄、跡取りとして大切に育てられ成長します。

一方、伊藤博文は長州藩周防国の百姓の子として生まれましたが、父が伊藤家に養子となることで下級武士の身

分を得ます。

幼名は「利助」といわれ、後に「俊輔」「春輔」等に改名しています

高杉晋作はは天保10年(1839年)、伊藤博文は天保12年(1841年)に誕生しています。

二人は時を同じくして、吉田松陰が主宰する松下村塾で学ぶ事と成ります。

 

しかし身分が低いという理由から、伊藤博文は塾の敷居を跨がせてもらえず、戸外から立ち聞きすることを強いられてしまいました。

その後、高杉晋作は久坂玄瑞ともに松門の双璧と言われるほどに頭角を現し、リーダー的存在になります。

伊藤博文は、そんな高杉晋作に憧れを抱き、兄貴分的な思いを寄せたと言われております。

そんな高杉晋作と伊藤博文でしたが、出会いはしたものの関係については、まだ薄いものでした。

 

彼らが初めて関係を明確にした出会いは、長州ではなく江戸だったそうです。

それも、安政5年(1858年)に吉田松陰が安政の大獄で処刑された後でした。

 

当時、伊藤博文は吉田松陰の遺体を引き取り埋葬する任務に就きましたが、その際に高杉晋作とあったと言われています。

二人は同じ師から教えを受けた仲間だったことから急激に親しくなりました。

 

高杉晋作と伊藤博文の共闘がより強い関係を築く

下関戦争

下関戦争とは、文久3年(1863年)から元治元年(1864年)にかけて、長州藩が関門海峡で外国船を砲撃したことに対して、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの4か国連合艦隊が下関を攻撃した戦争です。

この戦争では、高杉晋作と伊藤博文が共闘します。

下関戦争の結果は、外国の圧倒的な火力に敵わず長州藩は敗北しました。

伊藤博文はイギリス留学の経験を生かして通訳として活躍しました。

 

特に元治元年(1864年)8月には、4か国連合艦隊が下関の砲台を占拠するに至り、和議交渉が行われました。

この交渉では、高杉晋作が講和使節として出席しましたが、彼は賠償金や彦島の租借などの要求に応じませんでした。

伊藤博文は高杉晋作の通訳として働きましたが、彼もまた外国側の要求に抵抗しました。

この交渉では、高杉晋作と伊藤博文は長州藩の利益を守るために奮闘しました。

 

功山寺挙兵

功山寺挙兵とは慶応2年(1866年)9月から10月にかけて起きた長州内乱です。

これは幕府へ恭順する保守派(俗論派)と幕府へ抵抗する急進派(正義派)との間で起きた争いです。

この内乱では高杉晋作が正義派の中心人物として活動しました。

伊藤博文もまた正義派側で参加しました。

 

彼は自ら力士隊を率いて高杉晋作の下に真っ先に駆けつけます。

のちに、「私の人生において、唯一誇れることがあるとすれば、この時、一番に高杉さんの元に駆けつけた事だろう」と語っています。

この内乱では正義派が勝利し、長州藩は幕府に対する強硬姿勢を取るようになりました。

これが後の第二次長州征伐や戊辰戦争へとつながっていきます。

 

高杉晋作と伊藤博文の別れ

高杉晋作と伊藤博文は幕末を共に駆け抜けた仲間であり、友人でありました。

 

しかし、彼らは明治維新を迎える前に別れることになります。

慶応3年(1867年)5月17日、高杉晋作は下関郊外の桜山にある小さな家屋で亡くなりました。

わずか27年と8か月の激動の人生でした。

伊藤博文は高杉晋作の死を知って悲しみました。

 

のちに、伊藤博文は「動けば雷電の如く発すれば風雨の如し」と高杉晋作を評した言葉を残します。

伊藤博文はその後も新政府の要職を歴任し、明治日本の近代化に貢献していきます。

 

今回は、高杉晋作と伊藤博文が歩んだ幕末、夢を追った二人の関係についてお話ししました。

彼らは同じ長州藩出身であり、尊王攘夷の志士として活動しました。

下関戦争や功山寺挙兵などでは共闘しましたが、明治維新を迎える前に別れることになりました。

高杉晋作と伊藤博文は幕末の動乱期において重要な役割を果たした人物です。彼らの生き方や思想から学ぶことも多いかもしれません。

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