幕末の長州藩の尊王攘夷志士として活躍した高杉晋作について紹介します。
高杉晋作とは何をした人なのでしょうか?
今回は、幕末最強の男と呼ばれる彼の魅力に迫ります。
高杉晋作とは何をした人?
幕末の奇兵隊創設者、高杉晋作は1839年に長門国萩で生まれた長州藩士です。
藩校明倫館や吉田松陰が主宰する松下村塾で学び、尊王攘夷(天皇を尊重し、外国人を追い出すこと)の思想に傾倒しました。
江戸や京都で勤皇・破約攘夷論の宣伝活動を行い、外国船砲撃や英国公使館焼き討ちなどの事件に関わりました。
1863年に下関で外国船と戦った際には、身分に関係なく「志」がある者を集めて奇兵隊という部隊を結成しました。
奇兵隊は武士や庶民(町民や農民)といった身分に関係なく参加できる組織で、長州藩内でも最強と言われる存在になりました。
高杉晋作は奇兵隊を率いて幕府や他藩と戦い、倒幕運動に大きな影響を与えました。
幕末最強の男
高杉晋作は幕末最強の男と呼ばれるだけあって、その能力や人格も非凡なものでした。
剣術等の腕前だけでなく海外事情や政治経済もよく理解しており、交渉術も巧みでした。
また、自ら危険な場所に赴き敵陣突破する勇敢さや決断力も持ち合わせていました。
高杉晋作はまた、自分より優秀な者や有能な者を見つける目もありました。
桂小五郎(木戸孝允)、久坂玄瑞、伊藤博文など後の明治政府の中心人物たちはみな彼と同じ長州藩の志士でした。
彼らからも深く信頼され慕われていました。
高杉晋作の人生に学ぶ
以上が高杉晋作とは何をした人かについて紹介した内容です。
彼は幕末最強の男として多くの功績を残しましたが、その一方で肺結核に苦しみ若くして亡くなりました。
高杉晋作の死因は、肺結核でした。
高杉晋作は、新暦・1867年5月17日享年29歳(満27歳8ヶ月)の若さの中、下関で亡くなりました。
高杉晋作は生涯を通して多くの戦いに参加しましたが、その中でも特に激しかったのが1866年(慶応2年)の四境戦争です。
この戦争では長州藩が幕府軍に勝利しましたが、高杉は度々吐血しながら戦闘を指揮しました。
このときから彼の病状は悪化し始めました。
高杉晋作は下関郊外の桜山に愛人おうのを呼び寄せ、小さな小屋で療養生活に入りましたが、回復することはありませんでした。
最期の時を看取ったのは愛人おうのと女流歌人である野村望東尼でした。
高杉は死ぬ前に「おもしろき事もなき世をおもしろく」という歌を詠みました。
これが彼の辞世の句となりました。
この歌に対して野村望東尼が「すみなすものは心なりけり」という下の句を詠んだと言われています。
この二つの句を合わせると、「面白いこともない世界を面白くするのは自分自身次第だ」という意味になります。
現代の私たちに鑑みると「前向きで主体的な考え方を持ち、自らが人生を豊かにしていく」という思いを感じる一句です。
高杉晋作は幕末最強と呼ばれる男でしたが、結核という病気に苦しみ若くして逝ってしまいました。
しかし彼はその生涯で多くの功績を残し、後世に影響を与えた人物でした。
今回は高杉晋作とは何をした人というタイトルで始まりましたが、今自分自身が「何をしたい人」なのかを考える事の大切を痛感します。