私は高杉晋作

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私は高杉晋作

頭がおかしいと言う人が「頭がおかしい」

「欲しいもの」はどうすれば手に入れることができるか?

欲しいものがありすぎる

欲しいものがない

 

 

現代の日本というのは周囲の話を聞いていても結構上のように両極端なことが多いのではないだろうか。

 

 

ただもちろん「欲しいもの」がある人が欲しいものを手に入れることができているということを意味するわけでもなければ、「欲しいものがない」という人が欲しいものを手に入れられる状況から遠いというわけでもない。

 

 

そもそも「欲しいもの」が何かわからない人や、「欲しいもの」は有るけれども言語化できていない人もいるであろう。

 

 

 

 

さて、そろそろ「まわりくどいなお前は」と言われそうなので本題に入ろうか。

 

本論考では「我々が本当に欲しいもの」について考えを進める。

そして現代社会が作り出すまやかしの「欲しいものを手に入れようとする」状況から脱却することを目指すとともに本当に「欲しいもの」はいかにして得られるかをかければと思う。

 

  • すべての人間が欲しいものとは?
  • まやかしの「欲しいもの」について
  • 「欲しいもの」は手に入れることができるのか?

 

 

すべての人間が欲しいものとは?

今ここに「すべての人間が欲しいもの」について書こうという傲慢な取り組みを私はしようとしている。

 

 

私は基本的に「絶対にこうだ」「普遍的に」という言葉は使わない人間であるにもかかわらずだ。

 

 

当初、「すべての人間が欲しいもの」など存在ないと考えていた。

 

 

 

しかしながら、人間であれば「誰もが欲しいもの」は存在したのだ。

これは人間が生来的に持っている欲求に違いないという確信から来ている。

 

 

 

 

私の確信が「単なる傲慢」というのであれば、一意見として読み流していただければ幸いである。 

 

 

 

詳細はこれから書きたいと思うが、アウグスティヌスの偉大なる思想に触れることでその一端を私は知ることができた。

 

 

下記の内容に興味があればぜひ一度アウグスティヌスの思想に触れてみてもらいたい。

 

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結論から言おう。

 

 

 

アウグスティヌスが誰もが欲しいものであるとしてあげたのは*「愛」である。

 

*ここで「愛」は「彼氏」「彼女」の間に生まれる「愛」よりもっと広範なものを意味する。(「友情」などもふくんでよかろう。)

 

 

アウグスティヌスは「愛」を不要とする人間はいないと考えたのだ。

これに私は「確かに」と直感的に思わされた。

 

 

 

「愛されている者」はさらなる「愛」を欲しがる者だし、「愛されていないと感じる者」は「愛」を探し求める。

 

 

現代社会とは「愛」を求める動きで溢れているのではなかろうか。

 

 

 

これを仮に否定できるとすれば功利主義のロジックに毒された人間の質問くらいであろう。

 

 

その質問とは「愛に価値などあるのか」という暴力的なものだが、この問いのを抱く状態から克服することこそ私が目指す姿である。

 

 

 このまま押し切ってもいいのだが、

まずは、「愛」という概念が何ものかを伝えることを通して、誰にとっても「手に入れることを望むものである」という共通理解を作りたい。

 

 

 

 

 

あらかじめ断っておくと、アウグスティヌスの述べる「愛」の概念とはもっと広範なものである。

 

 

 

ではアウグスティヌスの述べる「愛」とは何か?

これには少し説明が必要だ。

 

 

 

まず「愛とは何か」と聞かれてあなたは即答できるだろうか。

 

 

 

そういう人はごく少数であろう。

 

では、なぜ我々が困り果てるのかというと、「愛」という概念が「単独で所有できない」という特性を持つことからきているからに他ならない。

 

 

それ故にいくら「内省」をしてもその意味を獲得することはありえない。

 

 

アウグスティヌスは「愛」をどのようなものと語っているかというと、「愛する者」と「愛される者」という具体的な2つの存在を持って誕生の権利を与えられるものとした。

 

アウグスティヌスにおいても、・・・・意志の内面的な抗争の解決は、意志自身の転換、すなわち、意志の愛への転換から生まれている。意志ーその機能的な働きという局面においては連結し、結合する力とみられるがーは、また、愛として規定されうる・・・。というのは、愛は、明らかに、もっとも実り豊かな連結する力だからである。愛においては、ふたたび、「三つのこと」が存在するのである。「愛する者、愛されるもの、それに愛。・・・二つのこと、すなわち、愛するものと愛されることを一緒にして・・・連結するので、近くを働かせるためには必要なのだ。・・・」

ハンナ・アレント 『精神の生活 下 第2部 意志』

 

 

 

つまり「愛」自体は、単独者が「手に入れること」を目指して手に入れることは不可能なものなのだ。

 

そして、その最大の特徴として「これが「愛」だったのか」と後でわかるというところをあげておきたい。「愛」を得るという目的を立てても「愛」は近寄るどころか遠ざかるのだ。

 

 

 

このことにピンとこない人に言いたいのは、あなたは近代の作り出した罠に絡め取られているということだ。

 

近代世界においてますます深まりつつある無意味性を、おそらく何よりもはっきりと予示するのは意味と目的とのこうした同一視であろう。意味は行為の目的ではありえない。意味は、行為そのものが終わった後に人間の行いから必ず生まれてくるものである。

ハンナ・アレント『過去と未来の間』

 

上に引用した通り、ここでいう近代の病とはもちろん「意味と目的の同一視」である。

 

 

まやかしの「欲しいもの」について

我々が日常的に蝕まれている言葉に「価値」というものがある。

 

 

この「価値」があるものであれば「意味」があるとされ、「価値」がないものであれば、「意味」がないものとされるのである。

 

 

しかし、この「価値」とはそもそもなんだったか?という疑問を問いかける時に我々はある暴力的な事実に気づかされる。

 

 

 

その事実とは、「功利主義の生み出したカテゴリーにおいて」という前提を置き去りにして普遍化しているということである。

 

 

しかし、そのように我に返るということなど長年功利主義のカテゴリーに使った我々にはもはや極めて難しくなってきている。

 

心の中では、そのように考えていようとも、行動はそこに絡められていることも少なくない。

 

 

そして我々の「欲しいもの」は功利主義のカテゴリーにおいて「価値があるもの」だけに無意識的に固定化される。

 

 

踏み込んで言えば、すべて「貨幣」で交換できるものとなり果てるし、後から生まれるものであってもいけない。

 

 

この極めて「非人間的な状況」についてかの若き日のマルクスは以下のように述べている。

人間が人間として存在し、人間と世界との関係が人間的な関係である、という前提に立てば、愛は愛としか交換できないし、信頼は信頼としか交換できない。

カール・マルクス『経済学・哲学草稿』

 

マルクスもアウグスティヌス同様にここで「愛」という言葉を使っているのが非常に興味深いわけだが、「功利主義のカテゴリー」においては「愛」の価値は著しく落ちていることは、ここまで読んでいただけた読者諸氏には伝わっているであろう。

 

 

今や「愛」は、せいぜい己の快楽を満たす娼婦程度のものから、結婚してヒモになるために叫ばれる不当なものと成り果てている。

 

 

そして「愛だけでは生きていけないよ」という「上から目線」の人間たちが腕を組んで説教をする世の中だ。

 

 

 

 本当に「欲しいもの」はこの功利主義のカテゴリーから抜け出さなければ手に入らないと確信を得るのにそれほど時間はもうかかるまい。

 

「欲しいもの」は手に入れることができるのか?

「欲しいもの」はてに入れることができるのか?手に入らないのか?

ということのまとめに入りたい。

 

 

今回誰もが「欲しいもの」として「愛」の存在を掲げた。

そして、それが「単一者」においてのみでは手に入らないという他には見られない特異な特徴を述べてきた。(後から生まれてくるという)

 

 

  

しかし、この偉大なる「愛」は、「功利主義のカテゴリー」に蝕まれた現代世界において持ち込まれると、不当にもその「価値」を貶められた。

(なぜなら功利主義のカテゴリーでは「意味」と「目的」が同一視されるからだ。) 

 

 

 

 

では、この「愛」はどこで獲得されるのかというのを最後に書きたい。 

これは、「功利主義のカテゴリー」を逃れた「言論活動の場」においてのみ現れ得ると私は考えている。

*ちなみにアウグスティヌスはこれを「教会コミュニティ」に期待したことは有名である。

 

  

 

真の友情は、「功利主義」を持ち込めば成り立たないし、真の「愛」は「お小遣い月3万円ね!」という夫婦にも成り立たないということをイメージしていただければ幸いである。。

 

 

そういった「打算」を乗り越えられる場においてのみ「愛」は獲得されうる。

 

 

「大学の友人」「高校の友人」もこのような人であり得るだろう。

 

 

ただ、それも年齢とともに衰退していくのが関の山だ。

個人の過去の記憶のみに依拠しているが故に基盤が脆弱だからだ。

 

 

それ故に我々が「欲しいもの」を手に入れることができるには、公的な基盤を再構築しなければならないのである。

 

 

 

以上長々と書いてきたが、あなたの人生に何かのエッセンスとなれば幸いである。

 

 

おもしろきことなき世を面白く

 

 

 

 

仕事における悩みが尽きない人に読んでほしいコラム

仕事がうまくいかないなあ」

仕事向いてないのかなあ」

仕事における悩みが尽きないなあ」

 

 

 

こういう人は結構いるだろう。

私自身このような悩みというのは持ったりするものだ。

 

 

で、あなたはこのような悩みを持った時にどのように対処するだろうか。

  • 友達に悩み相談?
  • 同僚に悩み相談?
  • 自己啓発書やビジネス書を読む?

 

 

いろいろあると思う。

今日は、そんな仕事における悩みが尽きない人向けにコラムを書かせていただいた。

  1. 悩みがない方がいいのか?
  2. 悩みとは何か?
  3. 悩みは解消すべきか?

 

悩みがない方がいいのか?

そもそも論になるが、あなたは悩みがない方がいいと思っていないだろうか?

 

別にこれは仕事に限ったことではなく、生きていく中で悩みがない方がいいとあなたは思っていないだろうか?

 

それについて私は意義を申し立てたい。

私の考えは悩みがあるということほど素晴らしいということはないというものだ。

 

 

それこそが自己が生きているということの証であり、それを失った時に「人間でない人間」になってしまうのだ。

 

ここで悩めるあなたに偉大な人物を紹介したい。彼は生涯を通して悩み続けた男だったと言ってもいい。

 

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ソクラテスである。

彼は、悩み続けたし、人々が悩みを解消しようとすることに「悩みを増やすような発言」を放り込むとんでもない人間だった。

 

彼は、悩むことを通して「善人」となろうとしたわけでもなければ「権力」をとろうとしたのでもなかった。

 

しかし、偉大なる善行者となるために吟味を始めたなどとは言わない。彼個人に関して言えば、言えることはただ一つ、思考が人を賢くしたり回答を与えたりすることがないにしても、思考なしの生は無意味だということである。

ハンナ・アレント『精神の生活 上 第一部 思考』

 

ここに書かれている内容というのは繰り返し読み検討することがある文章である。

悩みの中で行われる思考は別に人を賢者へと導くわけではないのだという。

 

 

しかしながら、その思考こそが人間の生に意味を与えているというのだ。

 

この言葉にいまいちピンとこない人がいるかもしれない。

その理由をズバリ指摘するとそれは「意味と目的の同一視」をあなたはしているということだ。

 

 

自らの行為の「意味」を「目的の完遂度」で図ろうと無意識にしていないか?ということだ。

 

近代世界においてますます深まりつつある無意味性を、おそらく何よりもはっきりと予示するのは意味と目的とのこうした同一視であろう。意味は行為の目的ではありえない。意味は、行為そのものが終わった後に人間の行いから必ず生まれてくるものである。

ハンナ・アレント『過去と未来の間』

 

意味は時に行為そのものが終わった後に生まれてくるというアーレントの述べる視点があなたには欠落していないだろうか。

 

功利主義のカテゴリーに毒されることで目的意外に意味がないと思うことはいいこともあるのかもしれないが、損もしていると私は個人的に思うのだ。

 

悩みとは何か?

こういうことを言ったところで、あなたは仕事の悩みを解消するために安っぽい心理学やビジネス書に手を出そうとしていないだろうか。

 

 

もう少しだけ話を聞いて欲しい。

あなたに私はソクラテスおきまりのパターンともなるある問いを投げかけたい。

 

それは、「そもそも悩みとは何か?」というものだ。

 

プラトンのソクラテス的対話篇においてまず最初に面食らうのは、それらがすべて難問に突き当たる性格のものだということである。議論の行き場がなくなってしまうか、あるいは堂々巡りになってしまう。正義が何であるかを知るためには、知るということが何であるかを知らなければならず、そうするためには吟味以前にあらかじめ地についての考えを持っていなければならない。

ハンナ・アレント『精神の生活 上 第一部 思考』

 

ここでアーレントが指摘しているのをこのケースに当てはめると「仕事の悩みが尽きない」⇨「そもそも悩みとは何か?」⇨「悩みを知る上で必須となるが「知る」とはそもそも何か?」

 

ソクラテスの文章を読んでいると笑いどころでもあるのだが、すべての議論が堂々巡りに持ち込まれる。

 

しかし、ソクラテスはそれを明示的にはしないもののこの「悩みを持っている姿」こそが人間であるということを我々に伝えようとしているのではないかということを改めて私はここで尺を取ってあなたにいま伝えようとしている。

 

悩みは解消すべきか?

 

ということで、仕事における悩みが尽きないコラムも終わりを迎えようとしているが、おそらくあなたが求めていたような回答はここまでで何も出されていないことに気づくだろう。

 

 

そしてこの末尾に近づいたからといって私はその回答を伝える予定はない。

 

よって持ってあなたに伝えたいことは「悩みとは解消してはならない」というものだ。

 

 

 

悩みを解消しなければ意味がないという人にヴィトゲンシュタインの思考実験を引用することでさらに対抗したい。

何のために思考するのだろうか。・・・思考が役に立つことを知ったから考えるのだろうか。考えるのが得だと考えたからだろうか。・・・役に立つということがわかったので子供を育てるのだろうか

ヴィトゲンシュタイン『哲学探究』

 

 

アーレント、ヴィトゲンシュタインともに警鐘と鳴らすのは「意味と目的の同一視」である。

 

 

この構造から抜け出すことがある種悩みがもたらす苦しみを和らげるものとなるとも言える。

 

悩み自体を「自らが生きている意味」と捉えられるかというところが、明日からのあなたの毎日に一つのエッセンスとなれば幸いである。

 

 

おもしろきことなき世を面白く

 

 

結局人生がつらい時ってどうしたらいいの?

人生つらい

 

私は毎日のように感じている。

ただ、どうも私だけでもないらしい。

 

 

口には出さずとも周囲には結構いるようで、2chなんかはこれだけですごい数のスレッドが立っている。

 

 

 

今日は、人生つらい時というのはどうすればいいのかということを私は様々な読書を通じて改めて考えてみた。

 

 

我々のような人生つらいと感じるだけのものに救いはあるのかを今日は私の思考の形跡をメモとして残したい。

 

  1. 人生がつらいものは敗残者か?
  2. 人生がつらいとはなんなのか?
  3. 人生がつらい人に読んで欲しい本

 

 

人生がつらいものは敗残者か?

人生つらいということを考察するにあたっては、まずもって人生が楽しい人や人生が充実していると考えている人に目を向けなくてはならない。

 

 

人生を楽しんでいる人や人生が充実している人と聞いてどういう人物を思い浮かべるだろうか。

  • 恋人がいる人
  • 結婚している人
  • お金を持っている人
  • 会社の社長
  • 仕事で出世している人
  • 家族を持っている人

 

いろいろあるであろう。

それ故にこれらの人物を一言で定義することは困難である。

 

一方で、人生つらい状況にある人というのはどういう人たちか?

  • ニート
  • 会社をリストラされた人
  • もてない人
  • フリーター
  • 仕事が激務な人

 

 

こちらも一言では定義しえないものであることはお分かり頂けよう。

で、ここからが本題なのだが、真に人生が絶望的である人というのはどういう状況かを考え指摘した思想家がいる。

 

 

それは、セーレン・キルケゴールである。

 

キルケゴールは、人生に絶望する我々に以下のような言葉を投げかける。

自分が絶望していると思ったり感じたりしない者は誰でも実際にも絶望していないのだと考え、自分は絶望していると自分で言うものだけが絶望しているのだと考える通俗的な考察が正しいなどということはありえない。

セーレン・キルケゴール『死に至る病』

 

 

キルケゴールの言葉を咀嚼すると「絶望している」という我々が一概に「絶望的状況」とは限らず、一方で、「絶望していない」と言う人間が「絶望的でない状況」とは言えないということなのである。

 

では、キルケゴールが我々にとって真に絶望的な状況とはどういう状況と述べたか。

むしろその逆に、自分は絶望していると、なんのよそおいもなく言う者の方が、絶望していると人からも見られず自分でそう思わないすべてのものよりも、すこしばかり、弁証法的に一歩だけ、治癒にちかづいているのである。けれども、・・・・大抵の人間が、自分が精神として規定されていることを十分に自覚することなしに生きているということこそ普通のことなのである。。。

セーレン・キルケゴール『死に至る病』

 

キルケゴールにとって「自己の危機」「自己破壊」「自己脱却」と呼ばれる状況こそ最も危険であると考えた。

 

これは、つまり、人生つらいと考えたのちに自分自身を見失なっている状況を指すのである。

 

つらいという感覚がある段階では、真に絶望的ではないのだと彼は力強く伝えるわけだが、ここには私も強く賛同しているところである。

 

人生がつらいとはなんなのか?

ここで、私は人生つらいとは何かについて言及することとしたい。

 

 

 

結論から言おう。

 

これは、「生きているということ」に他ならないと私は考えている。

 

つまり、このつらいという状況や苦しいという状況こそ、我々が自己自身を生きているというまぎれもない証拠だということである。

 

 

 

これと同様のことをソクラテスは我が身を持って示したとアーレントは述べる。

 

しかし、偉大なる善行者となるために吟味を始めたなどとは言わない。彼個人に関して言えば、言えることはただ一つ、思考が人を賢くしたり回答を与えたりすることがないにしても、思考なしの生は無意味だということである。ソクラテスがやったことの意味は行為そのものにある。言い方を変えれば次のようになる。思考するということと十全に生きていることは同じであり、それ故思考は常に新たに始まらなければならないものである。

ハンナ・アーレント『精神の生活』

 

ソクラテスは思考をし、問いを出すことで自らを苦しめるという一見無意味な行為に生涯を通じて身を捧げた。

 

 

 

プラトンが書いた彼の登場著作を読むと彼は何がしたいのかとついつい考えてしまう。

 

 

しかし、これは近代が生み出した「意味と目的の同一視」に他ならない。

 

 

 

つまり、その質問は無意味で、「思考すること自体」が自らの人生を生きることだと彼は示そうとしたのだ。

 

 

 

人生がつらい人に改めてここで言えるのは、そこで思考をやめ、自ら自身であることをやめることは人生の生を無意味にする危険な引き金であると言うことである。

 

 

自らであることをやめなければそれはまだ希望が残されている。

 

 

人生がつらい人に読んで欲しい本

人生つらい人向けに本を紹介するブログというのは山ほどある。

 

 

 

メンタリズムであったり、セラピーであったりといろいろある。

ただ、それらのどれもが「思考を放棄すること」を推奨するチンケなアカデミズムであることが少なくない。

 

 

 

 

そこで、私は人生つらい人に読んで欲しい本をここで改めて紹介することとする。

 

 

 

まずもって断っておくとあなたを楽にする本ではない。

むしろ気分を暗くさせるものである可能性は否定できない。

 

 

しかしながら、現前の絶望的状況に対して「つらい」と正常に反応しているあなたを破壊しようとする本よりどれほど意味のあるものかは読めばわかるだろう。

 

 

 キルケゴール『死に至る病』

 

死にいたる病 (ちくま学芸文庫)posted with ヨメレバ

セーレン キルケゴール 筑摩書房 1996-06

 

 

彼の結末たるや参考にならないことこの上ないが、彼が捉えた世界の諸相は現代を予言していたものに他ならない。人生がつらい人にはまず現代がどういう状況かを語るキルケゴールに教えを乞うてはいかがか。

 

 

ジャンヴァティスタヴィーコ『学問の方法』 

 

 

「生きる意味とは何か」を哲学者はどう考えたか(後編)

現代とは、あらゆるものが疑われる時代であり、その懐疑なくしては生きていくことさえ困難となりつつある時代である。

 

 

そんな絶望的な時代にあって哲学者はどのように向き合ってきたか

 

 

 

これを個人的には最近研究している。

ということで、前回に続き今回も書いていきたい。

 

 

前回は、セーレンキルケゴール、マルティン・ハイデガー、カール・マルクスにその答えを求めた。

 

 

彼らは革新的な思想を生み出したことは間違いない。ただ、最終的に自滅せざるをえなかった。もちろんその功績はそれによって失われるものではないが、、、

 

 

 

 

今日は、また新たな哲学者に生きる意味を探し求めたい。

  • 生きる意味とは何かーフリードリッヒ・ニーチェ
  • 生きる意味とは何かーエマニュエル・カント
  • 生きる意味とは何かーカール・ヤスパース

 

私は人間の諸行動を笑わず、欺かず、呪詛もせず、ただ理解することにひたすら務めた

スピノザ『国家論』

 

生きる意味とは何かーフリードリッヒ・ニーチェ

哲学者というのは数多いるものだが、哲学をかじったことがない人でお知っているくらいこのニーチェという哲学者の知名度は高い。

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なぜこれほどまでにニーチェが有名なのかというと、ニーチェの思想が現代において最も受け入れやすいものであるからに他ならない。

蝿どもはすこしも悪意なく、あなたの血を欲しがっているのだ。かれらの血のない魂が血を渇望しているのだ、—だから、かれらが刺すのもまったく罪はない。

・・・・

かれらの狭い魂は言う「大きな存在は、すべて罪である」と。

フリードリヒ・ニーチェ『ツァラトゥストラかく語りき』

 

ニーチェは上にある通り、あらゆる社会的な秩序の崩壊とアナーキーな世の中の発見を思想の出発点としている。これは、前回のキルケゴールと出発点が同じであることはいうまでもないかもしれない。

 

 

人々の行動規範を司っていた階級制度や慣習の数々がすべて懐疑から崩壊のみちをたどっているとニーチェは述べたわけだ。

 

 

 

では、キルケゴールとニーチェでは何が違ったか。

それは下記のニーチェの言葉にて説明可能である。

 

だが、兄弟たちよ、あらゆる物のなかで最も奇妙なものが、最もよく証明されているのではなかろうか?

そうだ、この自我のことだ。それは矛盾し混乱したすがたを呈しているとはいえ、自己の存在については、このうえなく誠実率直に語っている。一切の物の尺度であり、価値であるところの、この創造し、意欲し、評価するところの自我は。

フリードリッヒ・ニーチェ『ツァラトゥストラかく語りき』

 

 

ニーチェあらゆるものを疑いの対象であるが唯一信頼に足るものがあると考えた。

それは、「自我」である。(キルケゴールの場合は、「信仰」だった。)

 

 

 

ここで、「自我」というとわかりにくいであろう。

わかりやすくしよう。

 

これは、「本能に忠実であれ」というものなのだ。(ニーチェは「力への意志」と言っている)

 

 

ニーチェの書物を読む限り、ニーチェの考える「価値」とは以下のような欲求のものである。

 

「食欲」、「性欲」、「*権力欲」(文明社会に生きるものの本能として)「物欲」(功利主義のカテゴリーにおいては湧き出ざるをえない)。

*これはおそらくホッブズの思想に依拠していると思われる。

 

 

とにかく「我欲」を満たし続けることがこのアナーキーな世界において唯一の正解ではないかとニーチェは考えたのだ。

 

 

このニーチェの思想は現代においても溢れている。

 

「俺。起業して億万長者になるから」

「俺、年収1000万」

「風俗行きてえ」

 

 

このような「自我への奉仕」こそが人間にとっての幸福であるという考えは溢れかえっている。

 

本屋に行けば、「稼ぐ方法」「豊かになる方法」、、、

読書というものさえ「功利主義のカテゴリー」に持ち込まれれば、堕落を避けられない。

 

 

すべてニーチェの思想が色濃く影響している。

 

  

 

さあ、やや批判的な論調で書いてきたが、もしかしたらこれはこれで正解なのかもしれない。

 

 

しかしながら、このような結果を我々が選び取ったのであればまだしも、無意識にこちらの道に迷い込んだ人間というのはニーチェの晩年同様自滅につながる。

 

 

あなたの生きる意味も「自我の奉仕」になり始めていないだろうか?

正直現代人が、キルケゴールの思想は過激派信仰組織の問題で幻滅したし、マルクスの理論を実行しようとする人間なんて100年は生き遅れていると言わざるをえないくらいいそうもない。

 

これらはすでに崩壊を経験することで克服できたようだ。

しかし、ニーチェの思想のはまだ「完全なる崩壊」を目の当たりにしていないが故にその流行は覚めそうもない。 

 

 

今こそ、立ち止まり別の選択肢を模索しても良い頃だ。

 

生きる意味とは何かーエマニュエル・カント

ニーチェに生きる意味を教えてもらうことはどうも危険らしい。

 

もう生きる意味を哲学することは無駄なのかと考え始めてしまうくらいにどうしようもない状況下に今はある。

 

ただ、私はその苦しみに対する光をカントに見出すことができている。

 

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〔共通感覚は〕誰もが我々の判断と、むしろ誰もが我々の判断と一致すべきであると主張する。この点で私は私の趣味判断を共通感覚の一つの範例として提案し、その故に私の趣味判断に範例的妥当性を帰するのである。エマニュエル・カント『判断力批判』

 

 

カントの偉大さとは、「生きる意味」を経験にではなく自らの内に秘められた力に求めたことにある。

 

これは、一見ニーチェの「自我」と近しいように見える。

しかし、ニーチェとの決定的な違いは、カントの場合、我々は「すべての人が普遍的に正しいと考える法則」の通りに生きることを推奨したところが挙げられる。

 

 

 

もちろんニーチェはカントのこの考えを「キリスト教の存在基盤」を無意識に前提としていると批判したわけだが、私はカントの考えを「キリスト教の基盤」と言って吐きすてることはできない。

 

 

というのもカントの思想に多大な影響を与えたバークが述べるように人間がアプリオリに相互に持っている共通認識がないと社会が成り立たないにちがいないからだ。

 

もし全人類に共通した感情の原理と同様、判断の何らかの原理がないとするならば、人生の通常の調和を維持するのに十分ないかなる支配も、おそらく人類の理性や情念に対してなされないであろう

エドマンドバーグ『崇高と美の観念の起源』

 

卑近な例で言うと我々は教えられたわけでもないのに、「美人だ」とか「ブスだ!」とか言っている。

 

「この顔はブスです」と教えられたのだとするとずいぶんひどい教育があるものだ。

そんなことはあるまい。

 

人間には、普遍的な価値尺度(カントの言葉を借りれば実践理性)は間違いなくある。

 

カントが古来の存在概念を破壊したとき彼が意図したのは、人間の自律性を打ち立てること、彼自身のいう人間の尊厳を確立することだった。カントは、人間を完全に人間自身に内在する法則のもとでのみ理解しようとした最初の哲学者、・・・人間が諸物野中の一つにすぎないような存在の普遍的な連関から人間を切り離そうとした最初の哲学者である。

ハンナ・アーレント『アーレント政治思想集成』

 

まとめよう。

カントは我々に生きる意味としてどう言っているのかというと、「我々はすでに善悪や美醜の判断がつく能力を生まれつき誰もが持っているのだから、それに従い突き進むべきである」というものなのである。

 

 

カントは我々の持つ可能性に最も迫った哲学者だったかもしれない。

 

 

生きる意味とは何かーカール・ヤスパース

最後に生きる意味を考察するのに力を貸してくれたのはその偉大さに比して知名度が圧倒的に低いカールヤスパースである。

 

一時期流行った時期もあったらしいが、カールヤスパースに関しては今や知っている人があまりに少ない。

 

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しかし、彼の哲学の偉大さはそれによって色あせてることがあってはならない。

 

前提を整える意味で、少し質問をしたい。

 

「哲学」と聞いてどのようなことをイメージするだろうか。

 

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こういう写真の男が地下の部屋にこもり四六時中一人で考え事をしているイメージだろうか。

 

 

おそらくそういうイメージがあるのは仕方あるまい。

しかし、哲学とは「個人による内省」を推進力とするものばかりではない。

これは偏見に他ならない。

 

 

「対話を通して納得解を作り上げる」という対話型の哲学というものもあるのだ。

それを明確に指摘し、思想としたのが、カールヤスパースだ。

 

カールヤスパースは自己一人ではいかなる「正解」にもたどり着けないと考えた。

 

なるほど私は自己一般を求めるが、しかしこれは私自身を見出すためであり、そして自己一般を見出すためにも私自身を求めるのである。私は私自身について問うとき、比較しえぬ者としての私自身については全く語り得ないということを根源的に経験する。

カール・ヤスパース『哲学』

 

これは「内省」の必要性を全面的に否定したものではない。

ただ、内省だけでは何もなしえないということをヤスパースは述べているのだ。

 

 

あらゆる人間は他者との交わりを避けられない。

それは、内省を推進力としたデカルトであれ、ニーチェであれ同じである。

 

私の由来を、私の開始として、客観化してみるとき、私は、自分の現存在が、私の両親の出会いということに結びつけられており、遺伝や教育によって、また社会学的かつ経済的情勢によって規定されたものであることを知る。私の開始は、絶対的な開始ではないのである。私の眼差しは私の開始を超えて背後へと遡り、そして私の開始が生成の結果であることを私は知る。私の誕生を超えて、視線は、この生成の涯てしない過程の中へと入り込むが、その過程の中では、いちばん最初の開始でありうるようないかなる根拠にも到達することがない。

カールヤスパース 『哲学』

 

人間は親という現存在から生まれてこざるをえないことを考えるとまず完全なる独立というものを成し遂げられるものはいないという個々の説明だけでも「交わり」のもたらす影響に前のめりになる方が賢明であろう。

 

 

兎にも角にもカールヤスパースの思想に基づけば、そういった自らの生きる意味というのは常に問い続けること(自分もだし他社も出し)でありそれから逃げたものは「人間でない人間」となってしまうということだ。

 

 

 

自らの生きる意味を哲学し続けること事態に「価値」を見出した例外的哲学者と言って差支えはなかろう。

 

 

終わりに

ここまで長きにわたる論考をお読みいただき誠に感謝の限りである。

論的には心もとない部分は多いと思われるが批判を歓迎したい。

 

 

最後に少しわたしの考えを。。。

 

この論調を見ればわかると思うが、私は今は日の目を見ていないカントとヤスパースの思想に大いなる可能性を見出している。

 

 

一方で、本屋でもたくさん並ぶニーチェの思想には危うさを感じてきている人間だ。

(もちろんニーチェの功績は色褪せないが、、、)

 

この偉大なる思想家の著書に少しでも興味を持っていただけたのであれば、ぜひ一度読んでいただければ幸いである。

 

 

カントとヤスパースの思想を集約し、わたしの考えをまとめれば以下のようになる。

 

我々人間には「経験的」にしか判断できないような能力しかないということはなくその可能性を信じることをやめてはならない。

と同時に、「他者との交わり」を通して自己完結的な「真理」に満足せず、常に問い続けることが極めて重要であるということだ。

 

 

おもしろきことなき世を面白く

 

「生きる意味とは何か」を哲学者はどう考えたか(前編)

「なぜ私は生きているのか」

「生きる意味がわからない」

「生きることに意味があるのか疑問だ」

 

 

こういうことをグーグル先生に質問する人というのが結構いるらしい。

月に結構な検索回数がなされている。

trends.google.co.jp

 

さて、あなたが学校の先生か子供を持つ母親か父親だとしよう。

 

 

子供が唐突に、

 

生きる意味とはなんですか」

 

と聞いてきたらどのように答えるだろうか?

実は、これは哲学における根源的な問いとも言われており、あらゆる哲学者たちがこの問いに答えようと人生の多くを捧げた。

 

その代表格が以下の6人である。

  • カール・マルクス
  • フリードリヒ・ニーチェ
  • エマニュエル・カント
  • セーレン・キルケゴール
  • マルティン・ハイデガー
  • カール・ヤスパース

 

最近は一回きりの記事が多かったが、久しぶりに長文となったため、2回に記事を分割した。あまり上記の哲学者に馴染みのない人も多いであろうから、平易な表現を使うことで私の方で補っていきたい。

  • 生きる意味とは何かーセーレン・キルケゴール
  • 生きる意味とは何かーマルティン・ハイデガー
  • 生きる意味とは何かーカール・マルクス

 

現代とは、生きる理由を通常は構成すると考えられているいっさいが消滅し、全てを問い直す覚悟なくしては、混乱もしくは無自覚に陥るしかない、そういう時代である。

シモーヌ・ヴェイユ『自由と社会的抑圧』

 

生きる意味とは何かーセーレン・キルケゴールー

私が読書会をしていて思ったのだが、セーレン・キルケゴールというのはどうも日本人にあまり馴染みのない哲学者であるらしい。

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それ故にいきなりここを読み飛ばされてしまうことを私は覚悟している。

 

ただ、読者諸氏には、このキルケゴールを過小評価していただきたくない。

 

ハイデガーやニーチェ、マルクスに知名度は劣るかもしれない。

 

しかし、彼らの哲学に先立って「生きる意味とは何か」を考え始めた「神なき時代」の最初の哲学者と言っても良いかもしれない。

 

自らの存在理由を問うた。

彼は個々人に迫り来る危険を以下のように述べている。

そしてまた、この世代は、連合というスケプシスを通じて水平化を行って、具体的な個人個人とすべての具体的な有機的機構とを排除してしまって、その代わりに人類というものを、人間と人間とのあいだの数的な平等性を手に入れたわけであるが、それからまた、この世代は、いかなる卓越したものによっても、どれほどわずかでも卓越したものによっても制限されたり妨害されたりすることもなく、見渡す限りただ「空と海ばかり」であるような、あの抽象的な夢幻性の広大な眺望に、束の間の愉悦を覚えるのだが、そのときにこそ仕事は始まるのだ。個人個人が、めいめい別々におのれみずからを助けなければならないからである。

セーレン・キルケゴール『現代の批判』

 

特に黒字の部分が重要で、ルソーを契機として広まった「平等」という概念の推進は、社会における個人と個人のすべての具体的な関係性を破壊した。

 

これはここには記述されていないが、階級制度やギルドなどを具体的にはさす。

 

で、これは喜ばしいものだと考えたわけだが、実は大いなる危機が迫っていたということをキルケゴールという哲学者は述べている。

 

近代以前の個人が生きる意味を公的に保障されていた時代の終わりをここに記載しているのだ。

 

 

それ故に、個々人が自らに生きる意味を自らの手で与えよと叫んでいるのだ。

 

では、キルケゴールは生きる意味をどのようにして模索したか?

それは、神への信仰に他ならない。

 

「なーんだただの宗教オタクか。。。」

 

 

とあなたは今思ったかもしれない。

ただ、そう考えるのは、尚早だ。

 

 

キルケゴールは確かに神を取り戻し生きる意味を自らに与えようとした。

しかし、彼は、結局「神からの近さ」と「神からの隔たり」の間で宙吊りとなってしまう。

 

 

 

なぜ完全なる信仰を手に入れられなかったか?

 

それはキルケゴールという哲学者自体が、信仰の中に「懐疑」を持ち込んでしまったからである。

 

 

これがなぜ言えるのかは『死に至る病』という哲学的名著をぜひ読んで解決してもらいたいが、彼の哲学は「死」(無)を意識することから哲学を始めてしまっているからに他ならない。

 

死という最後の希望さえも残されないほど希望を失っているということなのである。

セーレン・キルケゴール『死に至る病』

 

 

神がれっきとした信仰対象として生きながらえていたならば、「死後の世界」は保障されているはずであり、「死」と向き合う必要や「死」を恐怖する必要はないはずだ。

 

だが、キルケゴールは「死」と向き合うことを余儀なくされている。

こうして神に救いを求めたキルケゴールはあえなく自滅した。

 

生きる意味とは何かーマルティン・ハイデガーー

ハイデガーは20世紀最大の哲学者とも言われ、最難関とも言われる『存在と時間』でおなじみの哲学者である。

読んだことはないかもしれないが、名前だけは聞いたことがある人も多いだろう。

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彼は、生涯を通じて代表作『存在と時間』にも見られたように「我々の生きる意味とは何か」について徹底的に考えた。

 

このように存在への問いを仕上げるためには、みずからに固有な歴史に問いかけるべきであるという指針を受け取らざるをえなくなるのである。それは、問うことそのものが歴史的に問うことであることが、問いの最も固有な存在意味だからである。

マルティン・ハイデガー『存在と時間』

 

ここでハイデガーが考えた生きる意味について『存在と時間』を引用しつつ書いていきたいのだが、これがなかなか難しそうである。

 

彼の哲学は、それまでの哲学と一線を画するということを意図して、彼独特の言葉が多用されているのだ。(実存、現存在、内存在、頽落、、、、)

 

この言葉を含んで引用してもなんのこっちゃわからないと思われるので、ここでは、その弟子だったアレントの言葉を使いつつ、ハイデガーが考えた「生きる意味とは何か」を書いていきたい。

 

 

ハイデガーが『存在と時間』という8冊にもおよぶ大著の中で示したことというのは、「我々に存在している理由などない」という極めて単純なことだった。

 

これはかの有名な「実存は本質に先立つ」という言葉に集約されている。

 

 

この言葉は、他のあらゆるものは「必要性」にかられて生み出されたが、ただ唯一人間だけは先に本体がありそのあといろいろな規定をされているという「神=人間」という図式を構築した。

 

従ってまた、存在を無として特徴づけることによって、人間が、所与の物としての存在という定義を脱却し、自らの行為を神のようなものではなくまさしく神のものとみなす試みが生まれる。これが、ハイデガーの哲学においてなぜ無が突如として能動的になり、「無化すること」を始めるかの理由である・・・。

ハンナ・アレント『アーレント政治思想集成』(「実存哲学とは何か」より)

 

彼の哲学は、キルケゴールに影響を色濃く受けているのは言うまでもないが、まず「人間に存在の意味はない」というところから始め「無」を導き出すことで、「行為」へと走り出すものだった。

 

要するに「生きる意味」など考えてもないが、人間存在こそが世界の始まりであると考えることで能動性を確保したのだ。ただ、ここに残された存在とはアナーキーな存在に他ならない。

人間が、これまで長きにわたって神がそうであるとされてきた存在者としていったん見出されながら、その存在者がまたしても現実には無力であり、したがって「存在の主」などいないということが明らかとなったわけである。唯一後に残されるのはアナーキーな存在様態だけである。

ハンナ・アレント『アーレント政治思想集成』(「実存哲学とは何か」より)

 

生きる意味とは何かーカール・マルクス

カール・マルクス

 

それは以下の写真の男なのだが、教科書などで写真だけは知っているという人は少なくない。

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それとあと一般的なイメージとして共産主義者であり、ロクでもないことをしでかした人というのも付随されがちだ。

 

 

確かに、マルクスは、その組み立てた理論を実践したところキルケゴールやハイデガー同様にどうしようもないことになったのだが、彼の功績は大きい。

 

 

我々の労働観などはすべてマルクスが作ったものと言ってはばからないほどに我々のものの見方を構成している。

 

 

まあそれは置いておいて、マルクスも「生きる意味」について哲学する上で避けては通れない人物だ。

 

実は彼ほど参考にならないにもかかわらず、我々に教訓を与えてくれる人もいない。

ここではそれについて書いていこう。ここもマルクス自体の文献は少ないので、アレントの言葉を借りていく。(若干寄ってしまって申し訳ない。)

 

 

 

まず、結論から言うと彼は、「生きる意味」を当初は考えていたのであろうが、どうして我々が存在しているのかに対する「所与としての存在」という前提を放棄した男である。

 

そして、「自らが世界を変える」という「人間=神」という概念をハイデガー同様無意識的にではあれ持ち込んだ。

もはや世界を解釈するのをやめ、世界を変革するのだとマルクスが高らかに語ったとき、彼はいわば、存在と世界を所与のものではなく人間によって作られうるものと考える、新しい存在概念、新しい世界概念のとば口に立っていた。

ハンナ・アレント『アーレント政治思想集成』(「実存哲学とは何か」より)

 

 

彼の変革というのは大雑把に言えば、階級差をなくせばいい社会ができるはずだという考えだったのだが、それは瞬く間に瓦解した。

 

それについてはジョージ・オーウェルの風刺が極めてわかりやすい。

この世界には三種類の人々が存在してきた。即ち上層、中間層、下層である。

・・・グループ間の相互関係は、時代によって変化してきた。だが、社会のこの本質的な構造は決して変わらなかった。途轍もない変動や、取り返しがつかないと見える変化の後でさえ、このパターンは常に現れるのだ。

ジョージ・オーウェル『1984』

 

階級差をなくしたのに階級がまたできてしまったというものだ。

彼に学ぶべきは「生きる意味」を考えるのをやめた途端、自らを神と考えロクでもない方向に走るということだ。

 

 

これは、前述の二つの哲学者にも言えることで、「生きる意味など無い」「存在理由など無い」という結論を出してしまうと、自らを神のようにみなし、すぐさま「行為」に走るアナーキーな存在様態に成り下がるのだ。

 

 

下記のような人物が代表例であるが、歴史に学ばないとは恐ろしい。

おそらくまたのし上がってくるだろうと思うと恐怖しか無いものだ。

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以上で、前半部を終わりとする。

また後半については別途論考を認めるので、興味がある方は楽しみにしていただきたい。

 

面白きことなき世をおもしろく