高杉晋作

高杉晋作ゆかりの地

高杉晋作碑に込められた伊藤博文の思い 碑文から見る彼の決意

明治維新の立役者の一人である高杉晋作は、幕末の動乱の中で若くして亡くなりました。

彼の墓には、後に初代内閣総理大臣となる伊藤博文が碑文を寄せています。

 

この碑文には、伊藤博文が高杉晋作に対して抱いていた思いや、自らの決意が込められています。

では、その碑文からどのようなメッセージが読み取れるのでしょうか?

 

高杉晋作と伊藤博文の出会いと交流

高杉晋作と伊藤博文は、長州藩の同志として、幕末の動乱に身を投じました。

二人は藩校の明倫館で学び、吉田松陰に師事しました。

 

もともと高杉晋作と伊藤博文(当時、利助)は家が近かったようですが、身分の違いにより吉田松陰が主宰した松下村塾に入門するまで交流はなかったそうです。

「松門の双璧」や「竜虎」と言われた高杉晋作と久坂玄瑞たちと比べると、吉田松陰曰く、

「才劣り、学幼し。しかし、性質は素直で華美になびかず、僕すこぶる之を愛す」

 

現代風に言うと、「才能も学問も平凡。でも素直なところは好きだよ」そんなところでしょうか。

吉田松陰は伊藤博文の資質を「周旋家」、すなわち当事者同士の間に立ち、売買や雇用の話がまとまるよう取り計らう人と評します。

 

これも現代風に言うと、政治家向きのようだと見受けられます。

伊藤博文はその後、高杉晋作らと行動を共にし、また高杉晋作を兄貴分のように捉え活躍して行きます。

そう!伊藤博文は明治維新後、初代内閣総理大臣まで上り詰めます。

 

伊藤博文が高杉晋作に託した碑文の内容と意味

高杉晋作は奇兵隊の設立や第二次長州征伐の功績を残し、この世を去ります。

1867年(慶応3年)享年29歳でした。

 

その後、彼の墓は山口県下関市の東行庵境内に建てられました。

明治四十四年(1911年)五月二十日、井上馨によって除幕された高杉晋作顕彰碑には、伊藤博文が撰した碑文が刻まれています。

この碑文は「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し」という頭書きで始まります。

 

この言葉は高杉晋作の行動力と影響力を表現したものであり、伊藤博文が彼に対して抱いていた敬慕と畏敬の念を示しています。

碑文では、高杉晋作の生涯を時系列に沿って詳細に記述しています。

伊藤博文は碑文で、「余等もまた参ず」という言葉を添えています。

 

これは、高杉晋作が残した志を引き継ぎ、日本の国家建設に貢献することを誓ったものです。

伊藤博文は高杉晋作と同じく長州藩出身であり、幕末から明治維新にかけて多くの苦難や困難を乗り越えてきました。

彼は高杉晋作の死後もその精神を忘れずに、日本の近代化や国際化に努めました。

高杉晋作碑は、伊藤博文が高杉晋作に対して送った最後のメッセージであり、同時に自らの使命感を表したものでもあります。

 

高杉晋作顕彰碑から感じること

高杉晋作碑は、明治維新の立役者である高杉晋作と伊藤博文の出会いと交流、生涯と遺訓、思いと決意を伝える貴重な史料です。

この碑文からは、二人が幕末から明治維新にかけて日本の国家建設に尽力したことや、その背景にあった思想や信念が読み取れます。

 

また、この碑文は名文としても評価されており、その言葉選びや表現力も見事です。

高杉晋作碑は、日本史だけでなく日本語や文学にも興味がある人にとって魅力的な題材です。

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