明治維新を成し遂げた長州藩の二大巨塔、高杉晋作と桂小五郎(木戸孝允)。
彼らはどのようにして幕末の動乱の中で革命の志を抱き、長州藩を倒幕運動の先頭に立たせたのでしょうか?
この記事では、彼らの生涯や活動、そして二人の関係について紹介します。
高杉晋作と桂小五郎の出会いと交流
幕末の長州藩には、明治維新の立役者となった二人の英雄がいました。
高杉晋作と桂小五郎です。高杉晋作は奇兵隊を組織し、武力で幕府に抵抗した武の人物です。
桂小五郎は長州藩の政治家として、朝廷や他藩との交渉役をした、智の人物です。
この二人はどのようにして出会い、どのようにして交流したのでしょうか。
高杉晋作と桂小五郎は、共に長州藩士でありながら、出自や性格は大きく異なりました。
高杉晋作は上士の家柄で、才能に恵まれていましたが、気性が荒くてわがままな面もありました。
桂小五郎の出生は萩藩医の家柄で、後に桂家へ養子となり武士の身分を得た人物ですが、冷静で慎重な面もありました。
しかし、この二人には共通点もありました。
それは、吉田松陰という師を敬愛していたことです。
吉田松陰は長州藩の兵学者で、尊王攘夷の思想を唱えた人物です。
彼は松下村塾という私塾を開き、多くの志士を育てました。
高杉晋作はその塾生の一人で、吉田松陰から直接教えを受けました。
桂小五郎は松下村塾に入ることはありませんでしたが、吉田松陰とは山鹿流兵学の門人として師弟関係にありました。
吉田松陰は桂小五郎を高く評価し、信頼していました。
高杉晋作と桂小五郎は、吉田松陰を通じて知り合いましたが、その後も長州藩内外で様々な場面で協力し合いました。
彼らは、互いに補完しあう存在として長州藩を支えました。
高杉晋作と桂小五郎の別れと遺産
高杉晋作と桂小五郎は、明治維新の実現に向けて尽力しましたが、その過程で二人は別れを迎えました。
高杉晋作は1867年に肺結核でこの世を去ります(享年29歳)。
桂小五郎は明治政府の中心人物となりましたが、1877年に病に倒れこの世をさります(享年45歳)。
この二人の死は、長州藩や明治政府に大きな衝撃を与えました。
高杉晋作は長州征伐での奮戦や下関戦争での和議交渉などで長州藩の危機を救いましたが、その過程で体を壊しました。
1867年、彼は下関市桜山で肺結核の療養中に病没しました。
彼の死は長州藩に大きな悲しみをもたらしました。
彼の遺体は遺言により奇兵隊本陣の吉田に埋葬され、後に木戸孝允(桂小五郎)らによって東京招魂社(靖国神社)に合祀されました。
桂小五郎は、高杉晋作の死後も長州藩の政治家として活躍しました。
大政奉還や王政復古の大号令などで明治維新の実現に貢献しました。
明治政府では参議や内務卿などを歴任し、中央集権化や廃藩置県などの改革を推進しました。
しかし1877年西南戦争のさなか、彼は京都にて詳細は不明だが「がん」にて死去しました。
彼の死は明治政府に大きな混乱をもたらしました。
高杉晋作と桂小五郎、維新の両輪として
高杉晋作と桂小五郎は、幕末の長州藩における二大巨塔と呼ばれる人物です。
高杉晋作は武力で幕府に抵抗した武の人物で、奇兵隊を結成しました。
桂小五郎は政治家として朝廷や他藩との交渉を担った智の人物で、明治政府の中心人物となりました。
二人は吉田松陰という師を敬愛し、互いに信頼し合う存在として長州藩を支えました。
二人は若くして病に侵されこの世を去りましたが、その遺産は明治維新の実現に大きく貢献しました。
現代においても高杉晋作や桂小五郎の思想や行動は、自分の信念を貫き、時代の変化に対応し、協力し合うことの重要性を教えてくれます。