私は高杉晋作

頭がおかしいと言う人が「頭がおかしい」

【決定版】何のために生きているのか?

約 9 分

何のために生きているのか

何のために働いているのか

何のために生まれてきたのか

 

ふと上のような思いを抱くことがある。

 

 

 

 

そして考えても考えても答えが出ずに途方にくれる。

 

 

 

 

これを人生において経験したことがない人というのはいないのではないか。

 

 

 

こと現代人に関して言えば、その思いの沸き上りを封殺することは不可能であるとさえ私はいってしまいたいほどだ。

 

ということで、私はこの手の問いに生涯を費やした賢人に助けをもらい今日は一つの論考としてまとめさせていただいた。

 

何のために生きているのか

何のために働いているのか

何のために生まれてきたのか

 

こういう思いを抱いている人に何かしらのヒントになれば幸いである。

 

  1. 何のために生きているのかー近代以前ー
  2. 何のために生きているのかー近代以降ー
  3. 「何のために」という問いへの省察

 

何のために生きているのかー近代以前ー

近代以前と近代以降というのはいつの時代も批評においては区切りをもうけられる箇所なのだが、ことこの「何のために生きているのか」という存在の意味への問いも適応される。

 

では、近代以前はどうだったのかというとこのような心配は不要であった。なぜならば、生きる意味が「神」によって与えられていたからである。

 

つまり、神が「すべし」と述べたように人生を歩くこと以外に生き方がなかったのだ。

 

一見不自由極まりなく見えるが、人間というのはそれ以外の選択肢を知らない場合には相対化できないため「窮屈さ」を感じないものだ。

 

ただ、時代の転換点が訪れる。

神が死を迎える時代だ。

デカルトやキルケゴール、ニーチェといった天才は近代の闇の深まりに先んじてこのことに気づいていた。

 

「神の権威」が消滅しつつあるということだ。

 

善悪の判断や道徳についての判断が「神」ではなく、「人間」によってなされる時代をデカルトが予想していたことは下記の文章から明らかである。

知性がものの善悪を表示するのに応じてのみ、それに従ったり、避けたりするのだから、よく行うためにはよく判断すれば十分であり、したがって、最善を尽くすためには、つまり、あらゆる美徳とともにわれわれの手に入りうる他の全ての善も獲得するためには、できる限りよく判断すれば十分なのである。そしてわれわれがこのことを確信する限り、心の満足を書くことはないだろう。

ルネ・デカルト『方法序説』

 

ちなみにキルケゴールに関しては、「神」の消滅という現実に抗うために「信仰自体」へと退避するようになる。詳細は『死に至る病』を参照されたい。

 

こうして近代以降あらゆる行為に対する「意味」の付与を行う権力が「神」から「人間」へと渡ることとなる。

我々は真の世界を廃絶した。何が残っているか。ことによったら現象世界か?あー、違う!真の世界と一緒に現象世界もまた廃絶してしまったのだ。

フリードリヒ・ニーチェ『偶像の黄昏』

 

ただ、この時点ではまだ「人間存在」の意味自体は自明のものとなっているということがわかるだろう。彼らは、自我から何の疑いもなく進んでいる。

 

存在自体にはまだ疑いは持っていない。

それ故に、「なぜ生きているのか」をまだ本格的に問うてはいない。

 

 

では、我々はいつのタイミングで「なぜ生きているのか」と考えるほどの存在の危険に至ったか?

これは、ハイデガーによるところが大きい。

何のために生きているのかー近代以降ー

ハイデガーをもって本格的に近代は深まりを見せる。

現存在の存在は、その意味を時間性のうちにみいだす。この時間性は同時に、現存在そのものの時間的な存在様式としての歴史性を可能にする条件でもある。

マルティン・ハイデガー『存在と時間』

 

ハイデガーの『存在と時間』というのは難解だと言われているが、それはハイデガーが彼の出した結論をあえて直接的に表現しないからだと私は考えている。

 

上の引用などもまさにそうだが、「ふーん。よくわかんね」くらいで通り過ぎそうになってしまうが、実はある本質的なメッセージを含んでいる。

 

 

それは、ここでトピックにもなっている「なんで私は生きているのか」「なぜ私は生きるのか」への答えだ。

 

その答えとは、もうおわかりかもしれないが、「我々に生きている意味などない」「我々に存在している意味などない」ということである。

 

アーレントのハイデガーについての省察が極めてわかりやすいため補足として引用したい。

ハイデガーは存在の意味への問いに対して、時間性こそが存在の意味であるという暫定的な、それだけでは元々理解しにくい答えを与えるにとどまった。このことが含意するのは、そして死によって条件づけられた現存在の分析によってハイデガーが厳密に論じるのは、存在の意味とは無であるということである。

ハンナ・アレント『アーレント政治思想集成』

 

ちなみに私の仮説としてもう一つハイデガーの読みにくさの原因として我々がこのハイデガーの結論を受け入れたくないという心理的な傾きもありうるであろう。

 

それほどに彼の存在分析というのは強烈なインパクトがある。

「何のために」という問いへの省察

何のために生きているのか

何のために働いているのか

何のために生まれてきたのか

 

こういう問いを前にして力尽きてしまいそうになるかもしれない。

ここで自滅するものも多い。

 

 

そして、貴方はこのままでは自滅するであろう。

 

それはどうしてわかるか?

 

 

それは、「何のために」という問いの発生に私は見ている。

この「何のために生きているのか」という問いに含まれる「何のために」という言葉は唱え続けるとそのうち気づくと思うが、「意味」と「目的」を常に同一視する危険な思考様式なのである。

 

 

少し補足すると、これ自体はもちろん悪いことばかりではない。これにより産業は大発展を遂げられたことは事実だ。

ホッブズの表現を借りれば、人間が動物より優れている点であるとさえいえる。

彼によれば動物は原因は究明できても「目的」は立てられない。

 

たとえば、ホッブズが伝統哲学と訣別した一つの理由は、これまでの形而上学はすべて、万物の第一原因を究明することが哲学の主な務めであるとする点でアリストテレスに追随してきたのに対し、目的や目標を指示し、合理的な行為の目的論を打ち立てることに哲学の務めはあると主張した点にある。ホッブズにとってはこの点こそ重要であった。そして、原因を発見する能力なら動物でも具えており、それゆえこの能力を持つか否かは、人間の生命と動物の生命を区別する真の指標にはならないとまで主張した。

ハンナ・アレント『過去と未来の間』

 

それ故にまずは、「何のために」という問いに縛り付けられた我々の存在を解放するところから生きている意味を蘇らせるために必要となる。

 

私は下記のアーレントの言葉をブログ内でよく引用させてもらうが、この言葉の力強さは何度えがいても足りない。

近代世界においてますます深まりつつある無意味性を、おそらく何よりもはっきりと予示するのは意味と目的とのこうした同一視であろう。意味は行為の目的ではありえない。意味は、行為そのものが終わった後に人間の行いから必ず生まれてくるものである。

ハンナ・アレント『過去と未来の間』

 

意味は後から付いてくる

 

その視点が現代の人々には致命的なまでに欠落している。

私自身この著書を読むまで気づかなかった。

 

これをより深く言及した人物にアーレントも師事したヤスパースがいるわけだが、我々は両親から誕生した時点で「絶対的な開始」とはなりえないという切り出しを行いながら、我々が絶えず「過程」の中にいることを伝えてくれる。

 

私は、自分を絶対的な開始として考えることはできない。私は自分で自分を作り出したわけではないからである。確かに、私が私自身であるとき、私は自分を根源として捉えはするが、しかし私は、私の由来において規定されているのである。

・・・中略・・・

私の由来を、私の開始として、客観化してみるとき、私は、自分の現存在が、私の両親の出会いということに結びつけられており、・・・私の開始は、絶対的な開始ではないのである。・・・私の誕生を超えて、視線は、この生成の涯てしない過程の中へと入り込むが、その過程の中では、いちばん最初の開始でありうるようないかなる根拠にも到達することがない。

カール・ヤスパース『哲学』

 

それ故に生きる意味についていくら考えようとも絶対的にはわからない。

この手の生き方を指南する本で丸善は溢れかえっているが、個人の存在の意味は他者には分かり得ないし、他者が教えることはできない。

 

自ら問い続ける人生を歩む形で、死ぬ間際「意味」というものが見えるかもしれない。

 

何のために生きているのか

何のために働いているのか

何のために生まれてきたのか

 

こういう問いを抱く人に伝えたいのは、「真理」は落ちていないが、貴方が今抱いているように「真理を探求しようとする試み」をやめなければ、後で意味は湧いてくるということだ。

 

 

さあドラッガー、カーネギー、金持ち父さん、コーヴィーを捨てよう。

そこに「人生の意味」は見つけらない。

 

 

おもしろきことなき世を面白く

About The Author

高杉晋作
1992年日本生まれ。ハンナ・アレント、カールヤスパースを師と仰ぎ読書会をやっている青年。より多くの人に「言論活動」の場を広げることで「人間味ある世界」の再生を目指している。

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