私は高杉晋作

頭がおかしいと言う人が「頭がおかしい」

人生が虚しい原因についての省察

約 8 分
人生が虚しい原因についての省察

人生が虚しい

人生が無意味である

生きることは辛いだけ

 

 

こういう「虚無感」というのは生きていれば誰しもが味わうものであるらしく、私も昨今この考えに頭を悩ませている。

 

 

それに対して釈迦も含めた坊さんの言葉を引いて「人生に意味なんてない!」という言葉が解決策として与えられているようだ。

 

 

だから開き直れということらしい。

反動を利用せよということか。

 

 

私はそんな反動でたちなおれるくらいの浅い人生に対する無意味さは持ち合わせていない。

 

 

そのような釈迦の説法で「よしじゃあ元気に生きよう」と考えられるならそもそも釈迦の説法などいらないだろう笑

 

 

まあ煽るのはこれくらいにして人生が虚しいと感じる人に今日は人生が虚しいと感じる要因について少し変わった角度から書いていこうと思う。

 

  1. ジンメルの貨幣理論に人生の虚しい原因が垣間見える
  2. 貨幣は何をしたかーポラニーはこう述べる
  3. 人生が虚しい人にしてもらいたいこと

 

ジンメルの貨幣理論に人生の虚しい原因が垣間見える

私が今回この記事を書こうと思ったきっかけなのだが、たまたま別の切り口でジンメルの著書を読んでいた時だった。

 

 

彼は貨幣思想において秀逸な功績を残したのだが、彼の貨幣論を読むと人生の虚しい原因が書かれているのだ。

 

 

 

 

結論から述べるとまぎれもなく我々の人生を虚しいものとしているのは貨幣ではないかとのことだ。少し詳しく見てみよう。

 

ジンメルは以下のように述べているのだが極めて納得感の高い記述である。

 

現代人の大半は人生の大部分を、金を得ることを目前の努力目標として過ごさざるをえない。そのために、あらゆる幸福、人生のあらゆる最終的満足は、何がしかの額の金を所有することと不可分に結びついているという思い込みが生じる。たんなる手段であり前提条件に過ぎないものが、内面的には最終的目標へと成長していく。

ゲオルク・ジンメル『近代文化における貨幣』

 

ジンメルによれば、我々は「貨幣」なくしては生きられないため生きるための手段として貨幣の獲得に奔走するとのこと。

 

ただ、その生きるための手段を長く追い求め続ける行為自体は死ぬまで続く。

 

それ故にいつの間にか「これが人生の最終的満足ではないか」という思い込みが生じるようだ。

 

こうして、「手段」が「目的」の様相を帯びてくるということであるらしい。

 

 

しかしながら、もちろん本能的に「金を稼ぐこと」が人生の目的であると考える人は世の中には一人もいないはずだ。

 

ここの解消されえぬカテゴリーこそが「貨幣」の恐ろしさのようだ。

 

つまり、手段であるとわかっているにもかかわらず目的に常にすり替わろうと働きかけがあると。

 

 

人生が虚しいと感じる原因はまさにこれではないかとジンメルは語っているのだ。

 

 

そしてジンメルは「貨幣は神となる」という趣旨の表現を使いその虚しさの堅固さを明らかにする。

 

実際、貨幣はこうして、かの最高原則たる神と同様、個別的なものに対する超越性と全能性にたいする信頼を勝ち得た。超越していながら、いかなる瞬間にも、個別的なもの、より低位にあるものを私たちに提供することができ、そうした具体物に再び姿を変えることができるというあの信頼を。貨幣所有が私たちに与える安心感と落ち着き、貨幣によって諸価値が私たちに与える安心感と落ちつき、貨幣によって諸価値の要を握っているという確信にこそ、純粋に心理学的に、いわば形式的に、両者を結ぶ等号がひそんでおり、これが「貨幣は私たちの時代の神になった」というあの嘆きに深い根拠を与えている。

ゲオルク・ジンメル『近代文化における貨幣』

 

少し長いが、端的に述べると我々に安心感をもたらす「貨幣」は心理学的にも「神」になったと説得力のある語りかけがここには書かれている。

 

 

つまり、人生において我々が「貨幣を追い求める」という手段と目的の転倒を果たした時、貨幣は神となるのだ。

 

 

 

しかし、宗教的コンテクストでの「神」とは全く異なる。

 

というのももちろん救ってはくれないからだ。

救うどころか虚しい繰り返しの連続をもたらすのである。

 

 

ああ。貨幣なくして生きられないものか!?

 

 

 

そう叫びたくなる。

 

 

 

 

だが、そうはいっても貨幣が必要な我々の現状に変化はない。

金利生活者に明日からなるわけでもない。

 

ただ、虚しい我々にシモーヌヴェイユという哲学者は救いをもたらしてくれる。

 

 

食べるために働き、働くために食べ・・・この二つのうちの一つを目的と見なしたり、あるいは、二つともを別々に切り離して目的としたりするならば、途方にくれるほかはない。サイクルにこそ、真実が含まれている。

かごの中でくるくる回るりすと、天球の回転。極限の悲惨さと、極限の偉大さ。

人間が円形のかごのなかでくるくる回るりすの姿をわが身と見るときこそ、自分を偽りさえしなければ、救いに近づいているのだ。

シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』

 

救いのない状況にあると気づいた時、我々は多少救われるのだ。

貨幣は何をしたかーポラニーはこう述べる

さて、貨幣が我々の人生を虚しいものとしている原因ではないかとジンメルを引きつつ書いてきた。

 

 

社会的分業が進み貨幣の重要性が個人にとっての重要度がますほどその侵食度はますだろう。

 

 

実は今となってはもう考えにくいが近代以前の社会的分業性がそこまで進んでおらず、ある程度の中規模コミュニティをほとんどの人が生活拠点としていた時には貨幣は神と言えるほどのものでもなかった。

 

 

カールポラニーが『大転換』の中で語ったことなのだが、近代の劇的変化として従来では商品ではありえなかったはずの「土地」「労働力」そして「貨幣自体」が商品になったことが世の中の仕組みをガラリと変えた大きな要因だと指摘している。これこそが人生を虚しいものにするスタートラインだったとは誰も当時は思わなかったかもしれない。

 

神が近代の勃興とともに消え失せたと思ったら新たな神が現れた。

 

今や全てが貨幣を通して一心同体となっている。

人生が虚しい人にしてもらいたいこと

さて人生が虚しいと感じる理由は貨幣という手段が神になったからであるということはここまでで繰り返し述べてきた。

 

そういった虚しさがつきまとう中で私が考える救いは一つだけある。

 

 

それは本を読むことだ。

 

 

今やほぼ例外なく「価値がある」というのは「貨幣」の量の多賀で決まるわけだが、本というのはそれが適応されない数少ない例外の世界に他ならない。

 

 

 

丸善やジュンク堂の平積みコーナーにある1500円ほどする中身のない自己啓発本もあれば、一方で、Kindleでマルクスを200円で読めるのである。

 

 

良い本が高いとは限らず、駄本が安いとは限らない。

 

 

なので、本当に価値があるものとはなんだろうかと考える機会を我々にもたらしてくれる。これは私にとっての読書の醍醐味ではないかと感じる。

 

 

 

一度だけでいい。

 

 

古今東西で「名著」と呼ばれる一冊を手にしてほしい。

それらが数百円で買えるのだが数百円という貨幣価値では測れない「価値」を実感できれば人生の虚しい状況は解消に向かうかもしれない。

 

 

About The Author

高杉晋作
1992年日本生まれ。ハンナ・アレント、カールヤスパースを師と仰ぎ読書会をやっている青年。より多くの人に「言論活動」の場を広げることで「人間味ある世界」の再生を目指している。

Comments & Trackbacks

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  1. ウチヤマタカシ

    初めまして(^^)
    ブログ、スゴいですね!
    大学で哲学専攻で勉強や研究されているんですか?

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