我々の孤独感が日々強いものとなるその理由とは

「GW もっといろんなことできたかもなあ」

と若干気持ちが沈み気味のあなたに朗報がある。

私のGWはというとどこに行くこともなく終盤を迎えようとしているということだ。

あなたは十分「リア獣」だ。安心してほしい。

まあ、余談はさておきGWに私は「これから自分が人生で取り組みたいこと」というのをずっと考えていた。

いろいろな文献を餌に思考をしていくわけだが、徐々にだが鮮明になってきた。

自分なりには、いい休日だったのかもしれない。

今日は、ここ一週間で考えてきたことがある程度まとまったので、筆をとることとした。

少し文章が長く小難しいかもしれないので、疲れている人は読まないことをお勧めする。

テーマは、「多くの人の孤独感が消えないという現象への考察」である。

  1. 孤独感の強い社会が誕生するに至った背景
  2. 孤独感が強い社会では人はどうなるか
  3. 孤独感をいかにして解消するかへの省察

孤独感の強い社会が誕生するに至った背景

NHKのドキュメンタリーなども含め現代社会ではしばしば「孤独感を感じやすい」という言説を耳にする。

これは「昔に比べて」という枕詞が暗につくことを意味するものと思われるが、現代は昔に比べて「孤独感を感じやすい」というのは本当なのだろうか。

この思考実験を行ったのが私がブログでよく紹介するハンナ・アーレントである。

彼女は、『人間の条件』という有名な著書の中で、人間の取り組みを「労働」「仕事」「活動」の3点で分析したことで有名な人物である。

ここでは、論が長くなりすぎないために「労働」と「活動」の対比において論を展開したい。

ちなみに「仕事」というのは産業革命以降「労働」にほぼほぼ吸収されたというのがアーレントの見解である。

 

 

「労働」と「活動」の対比にわれわれの孤独感が強い理由を紐解くヒントがある。

それ故に、この両者についていくつか説明をしたい。

まず、「労働」であるが、アーレントは以下のように述べているテクストがある。

 例えば、労働という活動力は他者の存在を必要としない。もっとも、完全な孤独のうちに労働する存在は、もはや人間ではなく、まったく文字通りの意味で<労働する動物>・・ではあるが。

ハンナ・アレント『人間の条件』

「労働」についてハンナ・アレントの分析を全部読んでいただきたいところではあるが、紙面の都合上ここでは、「他者の存在を必要としない」というところだけ頭に留めてもらえれば、幸いである。

一方で、「活動」に関する彼女のテクストも引用したい。

こう見ると、活動だけが人間の排他的な特権であり、野獣も神も活動の能力を持たない。そして、活動だけが、他者の絶えざる存在に完全に依存しているのである。

ハンナ・アレント『人間の条件』

ここで、いくつか補足が必要であろう。

まず「活動」とは何か?

アーレントに馴染みがないと彼女の独特の論に置いていかれてしまうことが予想される。

そこで、暫定的ではあるが、簡易の理解となるような箇所を引用したい。

正確に言えば、ポリスというのは、ある一定の物理的場所を占める都市=国家ではない。むしろ、それは、共に活動し、共に語ることから生まれる人々の組織である。活動と言論は、それに参加する人々の間に空間を作るのであり、その空間は、ほとんどいかなる時いかなる場所にもそれにふさわしい場所を見つけることができる。

ハンナ・アレント『人間の条件』

ここで、「活動」の場の具体的な例としてアーレントは古代ギリシアのポリスを上げている。

ここの記載によると「活動」とは複数の相異なる人々が集まりその場で言論活動を行い、「空間」を作り出すことである。

今は、「活動」についての話はこれくらいにしてもう一つ気になるであろうところに話をうつそう。

その気になる点というのは、私自身も初読で勘違いし生まれた疑問であったが、「労働」も「活動」同様、他者なしではできないではないか?というものだ。

これは、確かに「労働」によりあるものを生み出そうとする場合、一人では作り得ないという事実から明らかなように見える。(もし作れるのであれば、それはアーレントのいう「仕事」に分類されてしまう)

ただ、アーレントの議論は今ここでは「終点」ではなく、「始点」にあるというふうに説明をすればこの疑問は解消されるだろう。

つまり、「労働」は、他者の介助なく、何かしら始めることができる一方で、「活動」は言論を行うため「他者」がいなければそもそも始めることすらできないということをここでアーレントは言いたいのだと私は考えている。

言論とは「他者」の存在なくしては始められえない。

随分と前置きが長くなったが、ここでようやくアーレントが導き出した一つの仮説にたどり着く。

孤独感が強い社会が誕生するに至った経緯というのは、この「労働」と「活動」という両者の優先順位が近代以降ひっくり返ったことが大きいのではないかということなのだ。

では、なぜ「労働」が圧倒的勝利を収めたのかというと『人間の条件』では以下のように書かれている。

近代において労働が上位に立った理由は、まさに労働の「生産性」にあったからである。

 その上、スミスやマルクスも、非生産的労働は寄生的なものであり、実際上は一種の労働の歪曲に過ぎず、世界を富ませないから、この非生産的労働という名称には全く価値がないとして、それを軽蔑していた。

ハンナ・アレント『人間の条件』

ここに「生産性」「非生産的」という言葉が複数回出てくるが、これが「労働」の勝利を確約する魔法の言葉である。

功利主義のカテゴリーにおいては、「生産性」が「低い」もしくは「ない」というものは、「価値がない」と判断され撲滅の対象となる。

「活動」などもってのほかで功利主義のカテゴリーでは「無価値」と見なされ、真っ先に放棄されることは言うまでもない。

そう。この運動を推し進めた結果が「労働」が優位に立ち、人と人を言論でつなぐ「活動」の領域の消滅隣、多くの人の孤独感が強い状況を生み出していたのだ。

孤独感が強い社会では人はどうなるか

で、「労働」の勝利の結果として誕生した「孤独感が強い社会」では人々はどのようになっていくのかということに話を進めていきたい。

ここに関しては、『人間の条件』の中では、以下のように述べられている。

社会というものは、いつでも、その成員がたった一つの意見と一つの利害しか持たないような、単一の巨大家族の成員であるかのように振る舞うよう要求するからである。

ハンナ・アレント『人間の条件』

ここで言われているのは「社会」というものはその本姓上、単一の利害だけが支配することを要求してしまう。(もちろん功利主義のカテゴリー)

このことを十二分に理解していたのはカールマルクスであった。

マルクスは「人間の社会化」が全利害の調和を自動的に生み出すだろうという結論を引き出した点で正しかった。

ハンナ・アレント『人間の条件』

ただ、「社会の生産性なんてどうでもいいぜ。」という人間が現れたらどうするのかということをあなたは指摘するであろう。

そこに関しては、「どうでもいいorどうでもよくない」はあまり議論においては関係がないということを私は伝えておきたい。

というのも「労働」は、我々の「生命」と密接に結びついており、自らの意志とは無関係に強制されるという特性を持っているからである。

これは、簡単で、明日会社を辞めた後に貯金が仮にあろうとも「労働」をしなければ、死を迎える日がいずれ近づくことを考えれば難しい話ではない。

こうして 近代以降あらゆるコミュニティは「生命」を維持するために存在するもので溢れかえる顛末を歩んだ。

いいかえると、近代の共同体はすべて、たちまちのうちに、生命を維持するのに必要な唯一の活動力である労働を中心とするようになったのである。・・・だから社会とは、ただ生命の維持のためにのみ存在する相互依存の事実が公的な重要性を帯び、ただ生存にのみ結びついた活動力が公的領域に現れるのを許されている形式に他ならない。

ハンナ・アレント『人間の条件』

我々は、功利主義の円滑過程だけで生きることを強いられ「労働」に終始する人生において「孤独感」を一層深めざるをえなくなった。

ただ、当の私たちは、自らが危険な世界にいることに気付くことすらできなくなっている。

偏見というのはそれに気づいた時点で、偏見ではなくなるということを考えると、「金持ちになりたい」「立派な家庭を気づきたい」「出世したい」と言ったものをさも「夢」かのようにかたってしまう現代の諸相に私は恐怖を感じずにはいられない。

そうはいっても社会だけにこの状況を招いた状況があるとは私は考えていない。

我々自身の「弱さ」も影響している。アーレントの言葉を借りれば我々には「勇気」が欠如している。

生命に対して愛着し過ぎれば、それは自由を妨げたし、それこそ奴隷のまぎれもない印であった。従って勇気は優れた政治的な徳となった。

ハンナ・アレント『人間の条件』

「生命」は大切だ。しかし、ソクラテスとクリトンの対話を今こそ思い出すべきかもしれない。

「ただ生きるのではなく、善く生きるべき」ということを。

それから次のことも考え直してみてくれたまえ、一番大切なことは単に生きることそのことではなくて、善く生きることであるというわれわれの主張には今でも変わりがないかどうかを。

プラトン『ソクラテスの弁明』

より善く生きるということを忘れかけむき出しの生存本能だけに従えば、もはや「人間でない人間」かもしれない。

孤独感をいかにして解消するかへの省察

ここまでで、孤独感が強い社会誕生の背景に関してざっとであるがなるべく平易な形でまとめてきた。(『人間の条件』を読まないとよくわからない箇所もあるかもしれない)

で、この孤独感をいかにして解消するかというところが最後議論の焦点となってくる。

ここに関して、アーレントは「活動」領域の再興というものに活路を見出しているわけだ。(そうとは断言していないが彼女の考えはこれで概ね間違いない)

ただ、その結論だけに絞り込むのは尚早であるというのが私の考えだ。

アーレントには批判の対象となるべき点が存在する。

アーレントの問題点としては、「労働」の問題を指摘したはいいが、「労働」なくしては我々は死んでしまうという現実から最終的に目を背けてしまっているというところにある。

これは、どういうことかというと、アーレントは「政治」というものからいわゆる社会保障なども含めた「生命過程」にコミットする要素を思考のテーブルから外してしまい自らの語りたい「活動」の要素だけを残してしまっている。

これは奴隷制なき現代においては避けられない問いであり、その問題から目を背けることが賢明とは思えないのだ。

かなり近いことをアーレントの批評として定評のある斎藤純一氏が述べている。

政治的行為はこの領域の内部でのみ行われ、逆に、「社会的なもの」の領域は完全に脱ー政治化される。

斎藤純一『公共性』

*ここでは「社会的なもの」というのがいわゆる「生命過程と密接にリンクしているもの」で、「政治的行為」は「活動」に差し替えて読んでいただければと思う。

斎藤氏は、「社会的なもの」(つまりは、「生命」に関わっている部分)も一緒に考えなくてはならないとのべているのだ。この指摘はもっともである。

ということで、私が考えるに孤独感が消えない社会からの脱却にあたっては2点の道があると考えている。(今の段階では)

まず、1点は今述べたような「労働」において「生命の再生産」以外の個人にとっての積極的な価値を付与できるような道を模索することである。

ここに関しては、たまたま同時代を生きたシモーヌ・ヴェイユの思想がアーレントの思想の一歩前をいっていたと私は考えている。

アーレントが述べた「活動」のエッセンスが、「労働」に多少なりとも組み込まれるためにも

「行きすぎた分業」を停止し、労働者が「思考」できる余地を残し、その思考がもたらす結果としての言論を「労働」の過程に組み込むことを模索すべきだとヴェイユの考えは示している。

集団行動でもこれに類する差異が認められる。職工長の監視下で流れ作業に携わる労働者の一団は、哀れを誘う光景である。一方、一握りの熟練労働者がなんらかの困難に足止めをくらい、めいめいが熟慮し、さまざまな行動の有り様を呈示し、他の仲間に対する公的な権威の有無にかかわらず、誰かが好走した方法を一致団結して適用するさまは、みていても美しい。かかる瞬間にあって、自由な集団の表彰はほぼ純粋な形であらわれる。

シモーヌ・ヴェイユ『自由と社会的抑圧』

そうは言いつつも、ここに関しては、現段階では完全なる理想論で現実味がないと感じる読者諸氏もいるであろう。

他でもない「労働」がこのような職人を破滅に追い込んだことを考えればその指摘は真っ当である。

ヴェイユもそれが非現実的であると認めている。

ヴェイユの論考は、ここで止まっているのだが、個人的には時代の変化が我々にポジティブな状況を生み出しつつあると考えている。

というのもヴェイユや斎藤氏が論考を書いたときと比べて、最近はとてつもないイノベーションたちが起きているからだ。

産業革命以降初めて「技術の革新」が初めて「生産性の向上」だけでなく、「労働者の苦悩」を解消する方向に向いているところが注目のポイントである。

それ故に、テクノロジーを使えば、なんでも作れるような時代が目の前にきており、先ほどした「アーレント批判」は取り越し苦労となる可能性があるのだ。(斎藤純一氏が『公共性』を書いた時代には想定できなかったことであろう。)

そして、2つ目だ。

2つ目は、もちろんすでに述べたアーレントの主張の心臓部分でもある「活動」領域の再生である。

こちらは、ロボットでは成しえない。

人間が構築する必要がある。

ただ、ポリスのところの引用でも書いたように、構築といっても物理的に何かを構築する必要はない。

いろいろな個人の考えが集まる場作りさえできれば完遂できるであろう。

私にとっては、その一つが「読書会」であるが、他にもいろいろな形を私自身探してみたいところである。

これを一歩でも前に進めること、

これが私が人生を賭してやりたいと考えていることなのだった。

長々と読んでいただき感謝している。

何か参考になれば幸いである。

おもしろき事なき世を面白く

P.S

最後に暇な人だけ付き合っていただければと思う。

こっからは独断と偏見である。。。

私は、アーレントを「最も歴史上天才の思想家」だと考えている。

それ故に、彼女の批判としてあげた先ほどのところも何か意図があるのではないかという考えを逆に持ち合わせている。(斎藤氏はアーレントの論の弱点と語るが)

だから、斎藤純一氏が指摘したような「生命過程を救う」政治機能を意図的に除外したという批判の前に、意図的に彼女がそうしたと仮定しその意図を考えるべきではないかということだ。

そう思わせられたのは『政治の約束』という彼女の著書を読んだからなのだが、

彼女にとっては、「政治」という言葉は、「職業としての政治家」のようなものではなく、もっと日常レベルで使われていることが多い。

(もちろん『全体主義の起源』などにおいては、いわゆる我々がイメーズするような「政治」なのだが、、、)

まあこの誤解を生む背景に、「政治」という言葉を多様なコンテクストで彼女が前置きなく使うからなのだけども。。。

個々人のレベルでの「政治」と考えた時に、意図的に政治家ら実務的なものを切り落とした理由が見えてくる気がするというのが私の独断であった。

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