なぜあの人と価値観が合わないのか?

友情の破綻

職場でのいざこざ

恋愛や結婚における破局

 

 

これらの最大の要因はというと「価値観が合わない」という理由に帰着することがしばしばあるようだ。

 

 

「もうあなたとは分かり合えない」

 

 

そうなって破壊的状況になることがどれほどあろうか。

 

 

私はこれについて一つの考えがあって、破壊的状況になるルーツは我々の前提の誤りに見られるのではないかと考えている。

 

 

 

今日は、そういった価値観の合わない友人、彼女や彼氏、同僚や上司とうまくわたりあるくにはどうすれば良いかについて自戒も込めて省察させていただいた。

 

  • 価値観の違いはなぜ起こるか
  • なぜ価値観の押し付けをしてしまうのか?
  • 多様化した価値観が溢れる世の中で

 

価値観の違いはなぜ起こるか

価値観の違いや価値観が合わないということに苦しめられる経験というのは、なぜ起こるのかというのを考えた時に「認識」という言葉がキーワードになってくる。

 

 

 

一般に、我々は「認識」をすることで、対象を分析し、対象がなんであるかを理解する。

 

しかし、この「認識」なるものは少々厄介で、一度認識を完了しなくては行動に移れないという側面を持っている。

 

 

 

これは、あるタイミングで、「思考停止」しない限り人間は何もできないということを言っていると言っても良いかもしれない。

 

下記はそれについてのニーチェの言葉である。

 

両者はかつて事物の本質を正しく見抜いた。彼らは認識した。ために、行動することが彼らに嘔吐を催させる。たとい彼らが行動しても、事物の永遠の本質をいささかなりとも変えることはできないし、たがの外れたこの世界をたて直すよう期待されることなど、彼らには、笑止なこと、あるいは恥ずべきことに思われるからだ。認識は行動を殺す。行動するためには幻覚のヴエールに包まれていることが必要である。ーこれがハムレットの教えである。

フリードリヒ・ニーチェ『悲劇の誕生』

 

この「認識」の作業をやめてしまうことで、ある種見え方が固定化され、それが他者と異なるものであった時「価値観が合わない」という結果を生み出すのだ。

 

 

 

で、ニーチェはその状況をほったらかしたのかといえば、そうではない。

 

ニーチェの思想は価値観の合わない人と向き合うにあたっては大切なスタンスを提供してくれる。

 

 

 

ニーチェは、我々に「一切の価値観というものはつくりものであるから、今自分が認識しているものは正しくもあれば間違いでもある」という独特の言い回しでこの「認識」の難問と向き合うことを勧めてくれる。

 

「存在するものはすべて正当であり、正当でない。両者ともに同一の資格を持っている」これが世界なのだ!これが世界というものなのだ!

フリードリヒ・ニーチェ『悲劇の誕生』

 

 

こういうのを見ていると「価値観が合わない」と嘆く人にあっては、自らの認識が相手も共通に認識されているはずだという願望含みの前提が色濃く出てしまってるのではないかと思わされる。

 

 

なぜ価値観の押し付けをしてしまうのか

で、相対するものの価値観が合わない場合に起こるのが「押しつけ」だったり、「衝突」だったりする。

 

 

しかし、これはある病に蝕まれていると私は感じる。

ここはニーチェも同様の指摘をしている。

 

 

それは、「答えが必ずあるはずだ」というイデーである。

 

 

これは「科学的な態度」とも言われるが、これは主体者には安心感を与えるものの周囲の排斥を必要とする。

 

ヴィーコは『学問の方法』で「単一の真理」を追い求める方に学問が傾くことに警鐘を鳴らしたわけだが、次の指摘は、まさに我々にとって目から鱗と言えるであろう。

 

そこで何よりもまず、学問の道具に関してであるが、われわれは今日学習をクリティカから始める。その第一真理をあらゆる虚偽だけではなく、虚偽の嫌疑からも浄化するために、あらゆる二次的真理とかあらゆる真らしいものをも、虚偽と同様に、知性から追放することを命ずるクリティカからである。

ジャン・ヴァティスタ・ヴィーコ『学問の方法』

 

 

答えが一つであるという認識論(理性偏重と言っても良いかも)は今の日本では特に当然のものだと考えられがちで、「飲み会に行きたくない」といえば、社会不適合者になるというのはいい例かもしれない。

 

 

 

というわけで、このような近代の認識理論を克服することから我々は始めなくてはならないというのが長々と書いてきたが自分の見解である。

 

 

そうしなければ、あなたは価値観の押し付けを「善意」からしてしまう人間になりうることも予想されるし、自分自身の生き方を大幅に制限する可能性もあるのだ。

 

 

 

で、求められる態度というのがあると私は考えていて、それは「優劣をつけないこと」である。

 

言い換えれば、客観性とは、優劣をつけないこと、そして介入しないことであった。この二つについて言えば、優劣をつけないこと、すなわち賞賛も非難も差し控える抑制の方が、介入しないことに比べればはるかに達成しやすい。

ハンナ・アレント『過去と未来の間』

 

 

先ほど述べたようにあらゆる価値観は所詮にわか仕込みのものであり、それらが妥当であるということを証明できる人など一人もいない。

 

 

であれば、「優劣をつけること」はやめておこうという単純な話なのである。

そういう向き合い方ができるようになるとある種「厭世的」「悟り」とも言われるが、大切ではなかろうか。

 

 

これは「明るいニヒリズム」と言っても良いかもしれない。

強さの厭世主義といったものは存在しないのか?生存の酷薄さ、凄惨さを、生存の悪と謎とを、幸福感から、あふれんばかりの健康から、言い換えれば生存の充実そのものから知的に偏愛するという厭世主義は?ことによると、過剰そのものに悩むということがあるのではないか?

フリードリヒ・ニーチェ『悲劇の誕生』

 

多様化した価値観が溢れる世の中で

そうはいっても「共感」が得られないというのはとてもとても苦痛である。

悟りにたどりつける人はたどり着けばいいのだが、そうもいかない人の方が多いだろう。

 

 

それに関して少し補足して終わりたい。(もちろん悟ることは大切。)

 

まず、アーレントはその「受難の体験」こそが人間として生きていることの証なのだから元気出せよと述べたのである。

 

だから活動者というのは、「行為者」であるだけでなく、同時に常に受難者でもある。

ハンナ・アレント『人間の条件』

 

 

つまり、受け入れられないという感覚は悪いものではないということなのだ。

価値観が合わないと感じた瞬間、我々は生きていると実感することができるいいタイミングなのだからそれを前向きに捉えるべきなんだとアレントはいっているのである。

 

 

 

では、受難を受け入れられるようにメンタル修行をすればいいのか?という発想が出てきそうだ。

 

 

しかし、これに関しては「否」である。

それは自滅につながる。

 

 

 

それ故に、私は、真理を一緒に探すという「探求の構図」を作る姿勢こそが一つのやり方ではないかと考えている。

 

 

私はレッシングが好きなのだが、ニーチェがそのレッシングの偉大さを語ってくれている箇所があるので引用したい。

 

もっとも正直な理論的人間であるレッシングがあえてこう言明しているわけだ、自分にとって重要なのは、真理そのものよりも、真理の探究の方である、と。この言葉によって、科学の根本的な秘密が露呈され、科学者たちの驚き、と言うより憤激を巻き起こしたのであった。

 レッシングのこの認識は、過度の驕慢ではないとすれば、過度の正直である。

フリードリヒ・ニーチェ『悲劇の誕生』

 

 

これは、レッシングに限らず、かのソクラテスもまた人生を通して我々に示してくれたことだったりする。

 

 

つまり、思考や対話を通して、一緒に悩み苦しみましょうということである。

 

思考が人を賢くしたり回答を与えたりすることがないにしても、思考なしの生は無意味だということである。ソクラテスがやったことの意味は行為そのものにある。言い方を変えれば次のようになる。思考するということと十全に生きていることは同じであり、それ故思考は常に新たに始まらなければならないものである。

ハンナ・アレント『精神の生活 上 第一部 思考』

 

それは解決がないかもしれない。

ただ、その一緒に歩くことこそ一つの解決ではなかろうか?

 

以上、明日からの生活に何かのエッセンスとなれば幸いである。

 

 

おもしろきことなき世を面白く 

 

 

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