私は高杉晋作

頭がおかしいと言う人が「頭がおかしい」

【コラム】休日が暇でつらい人に言いたいこと

約 9 分

休日すぎる」

休日やることがない」

休日暇だしパチンコでもしようかな」

休日にできる趣味が欲しいな」

 

 

休日だという人は「仕事が多い人」ほど顕著に見られるようで、もはや「つらい」と感じる人もかなりいるようです。

 

私の周囲もそういう人で溢れており、例えば、私は休日の過ごし方を聞かれると「サンマルクに12時間いる」という話をするとドン引きされるわけだ。

 

 

「それつらいんじゃない?」

「友達と遊ばないの?」

「GW予定ないって本当?」

 

どうやら大人にとっては「休日も忙しいこと」が一つのステータスらしく、強迫観念を持って海外旅行に行く人を目にすることも多々あるほどだ。

 

 

 

私のような人間は「イケテナイ社会人」を代表するようで、周囲からは「かわいそうなやつ」と同情される。

 

 

 

しかし待て。

私は一度たりとも休日に「つらい」と思ったことはないぞ。

 

 

 

世の中の人間は「何もしていないこと⇨暇⇨つらい」という図式を見事なまでに固定化しているようだ。

 

今日は、休日にここ2年近く予定を入れていない私から「つらい」状態について一緒に考えていきたい。

 

  1. 「暇」とは嫌悪すべきものか
  2. 「暇」な時にすべきこと
  3. 番外ー暇な人で世の中が溢れる理由についての省察

 

 

「暇」とは嫌悪すべきものか

そもそもあなたの偏見を解くことから始めなくてはならない。

 

その偏見というのは、すでに概要は述べたが、本来なくてもいい「休日つらい」という感情そのものである。

 

 

 

あえてきつめな表現をすると休日や長期休暇に必死に「予定を入れようとする人」を私は「馬鹿」と呼んでいる。

 

 

そういった人間たちについてあなたは「リア充の鏡」と呼ぶのであろうが、私もセネカも全く違う見方をしている。

*私は完全同意を求めない。ただ、あなたには私たちのような人間と「リア充」の間を生きてくれればいいと思っている。

 

・・・多くの者は・・・これと決まった目的もないまま、何かを追い求めて次から次へと新たな計画を立てる者も多く、また、ある者は、進むべき道を決める確かな方針も持たず、・・あくびをしているうちに運命の不意打ちを食らう。

セネカ『生の短さについて』

 

 

「リア充」の人間たちというのは、セネカに言わせれば、場当たり的に「功利主義」が用意した架空の「娯楽」に生を浪費させられているとのこと。

 

一見「主体的」に見えるかもしれないが、本質的には「創始」とはほぼ遠く用意された娯楽に身を委ねる「受動的」な状態に他ならない。

 

 

 

そうはいってもこの「娯楽」というものが「」を「潰す」ために大いに役に立っていると多くの人は勘違いを重ねてしまう。

 

 

しかし、私はそんなあなたにアーレントの下記の言葉を読んでいただきたい。

 

反対に、大衆社会は、文化ではなく、娯楽を欲しており娯楽産業が提供する製品は、実際他のあらゆる消費財とまったく同様に社会によって消費される。娯楽に必要な製品は、パンや肉ほどではないにしても社会の生命過程に仕えている。それは、無駄話と同じようになんとなく時をやり過ごすのに役立つが、このやり過ごされた空虚な時間は厳密に言えば、閑暇ではない。

ハンナ・アレント『過去と未来の間』

 

 

あなたの「休日の過ごし方」について「なんとなく時間をやり過ごすのに役立つ」とアーレントは語るが、あくまでセネカ同様「空虚」と断罪する。

 

 

セネカやアーレントがこれほどまでに「休日つぶし」をする人に批判的である理由はなんなのか?

 

 

 

それは上に出た「閑暇」を大切にしないからである。

この「閑暇」という言葉を「リア充」の諸君は聞きなれないかもしれないし、一切の価値を見出しえないかもしれない。

 

この「閑暇」というのは、「暇」と世間的に呼ばれるものとは与えられている時間が同じとはいえ全く異なるものである。

 

以下は、アーレントによる非常にわかりやすい分析だ。

 

閑暇とは、我々が生命過程に不可欠な一切の気遣いや活動から解放され、それゆえ、世界とその文化への自由を手にする時間である。これに対して空虚な時間の方は、本性からして生物学的であり、労働や睡眠がそのしかるべき時間を受け取った後の残余の時間である。娯楽が充たすと思われている空虚な時間は、生物学的に条件づけられた労働の循環つまりマルクスの言う「人間と自然の物質代謝」の中にある隙間に過ぎない。

ハンナ・アレント『過去と未来の間』

 

 

アーレントが休日つらい人に伝えたいことを私なりにまとめてみよう。

 

アーレントは、「休日に予定を入れる人」を生物学的な水準から抜け出えない「人間でない人間」(ジョンジョルダーノブルーノ)だと呼び、それでは動物と大差がないと述べたのだ。

 

 

そして、「人間らしい生を生きること」を実現するためには、その生物学的水準の気遣いを飛び出し文化に触れることや生への気遣いから解放される「自由な状態自体」を楽しめる状態こそ真に人間に憩いの機会をもたらすと述べたのだ。

 

 

人間には「二段階」あり、功利主義のカテゴリーに組み込まれた人間というのはマルクスの言う「人間と自然との新陳代謝」の状態に組み込まれ、動物と大差ない生をいとなむことを強いられてしまうのだからそこからまずは抜け出すことが必要だ。

 

 

それは具体的には「暇」自体に価値を見出し、そこを「生物学的水準」から抜け出した営みに活用することを指すことは言うまでもない。

 

 

「暇」な時にすべきこと

では、「暇」自体に価値を見出した方がいいことはわかったとして、そのあと何をすればいいのかとなる人は少なくないであろう。

 

 

ここに関して、セネカがその時間で何をしろと言ったのかを少し長いが引用しよう。

 

あれほど多くの偉人達が、富や公務や快楽を拒絶し、すべての障害を排除して、生きる術を知るという、ただこの一事のためにのみ全生涯をかけた。・・・生きるすべは、いわんや、何かに謀殺される人間には知るべくもないものなのである。いいかね、これは本当のことだ、人間的な過誤を超越した偉人の特性は、自分の時間が寸刻たりとも掠め取られるのを許さないことなのであり、どれほど短かろうと、自由になる時間を自分のためにのみ使うからこそ、彼らの生は誰の生よりも長いのである。・・・時を誰よりも惜しむ時の番人として、自分の時間と交換してもよいと思う価値のあるものは、彼らには何も見いだせなかったのである。

セネカ『生の短さについて』

 

 

「自らがどう生きていくかどう生きるのが良いのかそういう時間にあてろ」

 

とセネカは述べた。

 

これは、トルストイの『人生論』鴨長明『方丈記』などにも見られるものであり、セネカの独善ではなく、偉大な人物に見られる共通の見解であることを付記しておきたい。

 

 

 

では、この「生きる術」に対する答えは出るのかというと先に結論を先に言ってしまうとでないのである。

 

 

「なんだそれじゃあ意味がないじゃないか!?」

 

とあなたはなるだろう。

 

 

しかし、それは「意味」と「目的」を同一視しているからそのような発言が出るのである。

 

セネカの文章にそこまでの記述はなかったが、「考えること自体」(思考)にこそ、我々の生の意味は現れるとアーレントは述べた。アーレントはソクラテスを引き合いに以下のように述べる。

 

彼個人に関して言えば、言えることはただ一つ、思考が人を賢くしたり回答を与えたりすることがないにしても、思考なしの生は無意味だということである。ソクラテスがやったことの意味は行為そのものにある。

ハンナ・アーレント『精神の生活 上 第一部 思考』

 

彼女はソクラテスと言う人物を引き合いに「思考」時間がどれほど人生に意味を与えるかということを語った。その過程こそが、人間を生物学的レベルから飛び出させている状態であり、人間を人間らしくしている状態なのだ。

 

*ソクラテスというのは、ご存知あらゆる答えに疑問を投げかけ議論の始まりの時より「答え」から遠ざかるようにするという破壊者である。

 

 

 

「思考」に時間を費やしてはいかがだろうか。

 

それにあたっては休日である必要があるのだ。

つらいどころか素晴らしい時間なのだ。

 

巻末に紹介する本は是が非でも八重洲ブックセンターに今から飛び込んでかってほしい。

 

番外ー暇な人で世の中が溢れる理由についての省察

最後に番外編ではあるが、な人が世の中に溢れる理由について私の独断と偏見で文章を書きたいと思う。(そのつもりはないが)

 

 

興味がある人だけ読んでいただければと考えている。

 

 

まず、結論から言うと、つらい人が溢れているのは、社会において個々人の間に壁ができているからだと考えている。

 

言い換えれば、世間において人は多くの人と出会っていながら本質的に人との間には壁が存在しているということだ。

 

 

この壁はなぜ周囲に対して建てられているのかというとこれは功利主義における「私的利害」によるつながりに社会全体が覆われているからに他ならない。

 

「私的利害」を追求する社会と「壁」の関連がわかりにくいかもしれないがルソーの『社会契約論』を見るとわかるが、「私的利害」を追求する社会というのは基本的に周囲を「敵」と見なさざるを得ない状況になる。

 

 

それ故に「信頼できる人間」というのは0かいてもごく少数というところに帰着する。

 

 

 

 

ちなみにこの「私的利害」を超越できる関係というのは唯一家族であると考えているが、その家族制度も随分と弱体化した。

 

 

 

安倍晋三というグローバリストが配偶者控除を破壊して日本の家族制度を崩壊させた日には、いよいよあらゆる個人が完全に「アトム化」することとなろう。

 

 

従来であれば、これを支える公的基盤として教会やご近所付き合いなるものが存在したのだが、それも崩壊しつつある。

 

 

 

孤立化された個人というのは、何をするか?

 

 

それはここまで見てきたように社会の提供する「娯楽」に捕まり「人間と自然の物質代謝」に組み込まれる。

 

 

 

しかしながら、言うまでもなく、現状の存続を何よりも恐れ苦しむことを放棄した人間は妥協的にその選択をするわけだが、その掴み取った「幸福」が本当の幸福ではないことは繰り返し伝えすぎても伝えすぎとなることはないであろう。

 

 

ジョージオーウェルは素晴らしい言葉を残している。

「人生の目的がリア充である事だと思い込まない時だけ人間は幸せになれる」

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面白きことなき世をおもしろく

 

読書って何をしたらいいのって人へ

About The Author

高杉晋作
1992年日本生まれ。ハンナ・アレント、カールヤスパースを師と仰ぎ読書会をやっている青年。より多くの人に「言論活動」の場を広げることで「人間味ある世界」の再生を目指している。

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