私は高杉晋作

頭がおかしいと言う人が「頭がおかしい」

「生きる意味とは何か」を哲学者はどう考えたか(後編)

約 10 分

現代とは、あらゆるものが疑われる時代であり、その懐疑なくしては生きていくことさえ困難となりつつある時代である。

 

 

そんな絶望的な時代にあって哲学者はどのように向き合ってきたか

 

 

 

これを個人的には最近研究している。

ということで、前回に続き今回も書いていきたい。

 

 

前回は、セーレンキルケゴール、マルティン・ハイデガー、カール・マルクスにその答えを求めた。

 

 

彼らは革新的な思想を生み出したことは間違いない。ただ、最終的に自滅せざるをえなかった。もちろんその功績はそれによって失われるものではないが、、、

 

 

 

 

今日は、また新たな哲学者に生きる意味を探し求めたい。

  • 生きる意味とは何かーフリードリッヒ・ニーチェ
  • 生きる意味とは何かーエマニュエル・カント
  • 生きる意味とは何かーカール・ヤスパース

 

私は人間の諸行動を笑わず、欺かず、呪詛もせず、ただ理解することにひたすら務めた

スピノザ『国家論』

 

生きる意味とは何かーフリードリッヒ・ニーチェ

哲学者というのは数多いるものだが、哲学をかじったことがない人でお知っているくらいこのニーチェという哲学者の知名度は高い。

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なぜこれほどまでにニーチェが有名なのかというと、ニーチェの思想が現代において最も受け入れやすいものであるからに他ならない。

蝿どもはすこしも悪意なく、あなたの血を欲しがっているのだ。かれらの血のない魂が血を渇望しているのだ、—だから、かれらが刺すのもまったく罪はない。

・・・・

かれらの狭い魂は言う「大きな存在は、すべて罪である」と。

フリードリヒ・ニーチェ『ツァラトゥストラかく語りき』

 

ニーチェは上にある通り、あらゆる社会的な秩序の崩壊とアナーキーな世の中の発見を思想の出発点としている。これは、前回のキルケゴールと出発点が同じであることはいうまでもないかもしれない。

 

 

人々の行動規範を司っていた階級制度や慣習の数々がすべて懐疑から崩壊のみちをたどっているとニーチェは述べたわけだ。

 

 

 

では、キルケゴールとニーチェでは何が違ったか。

それは下記のニーチェの言葉にて説明可能である。

 

だが、兄弟たちよ、あらゆる物のなかで最も奇妙なものが、最もよく証明されているのではなかろうか?

そうだ、この自我のことだ。それは矛盾し混乱したすがたを呈しているとはいえ、自己の存在については、このうえなく誠実率直に語っている。一切の物の尺度であり、価値であるところの、この創造し、意欲し、評価するところの自我は。

フリードリッヒ・ニーチェ『ツァラトゥストラかく語りき』

 

 

ニーチェあらゆるものを疑いの対象であるが唯一信頼に足るものがあると考えた。

それは、「自我」である。(キルケゴールの場合は、「信仰」だった。)

 

 

 

ここで、「自我」というとわかりにくいであろう。

わかりやすくしよう。

 

これは、「本能に忠実であれ」というものなのだ。(ニーチェは「力への意志」と言っている)

 

 

ニーチェの書物を読む限り、ニーチェの考える「価値」とは以下のような欲求のものである。

 

「食欲」、「性欲」、「*権力欲」(文明社会に生きるものの本能として)「物欲」などなど。

*これはおそらくホッブズの思想に依拠していると思われる。

 

 

とにかく「我欲」を満たし続けることがこのアナーキーな世界において唯一の正解ではないかとニーチェは考えたのだ。

 

もちろんニーチェは「高貴さ」を人々に求めたわけだが、この「力への意志」が誤った方向に作用することが少なくなかった。

 

 

「俺。起業して億万長者になるから」

「俺、年収1000万」

「風俗行きてえ」

 

 

このような「自我への奉仕」はニーチェの意志する意志しないとにかかわらず、「力への意志」の一つであり、これこそが人間にとっての幸福であるという考えがはびこる要因の一つとなっている。

 

本屋に行けば、「稼ぐ方法」「豊かになる方法」、、、

読書というものさえ「功利主義のカテゴリー」に持ち込まれれば、堕落を避けられない。

 

 

すべてニーチェの思想に感化されているようだ。

 

  

 

さあ、やや批判的な論調で書いてきたが、もしかしたらこれはこれで正解なのかもしれない。何かに熱中し続けることができているのだから。

 

 

しかしながら、このような結果を我々が選び取ったのであればまだしも、無意識にこちらの道に迷い込んだ人間というのはニーチェの晩年同様自滅につながる。

 

 

あなたの生きる意味も「自我の奉仕」になり始めていないだろうか?

正直現代人が、キルケゴールの思想は過激派信仰組織の問題で幻滅したし、マルクスの理論を実行しようとする人間なんて100年は生き遅れていると言わざるをえないくらいいそうもない。

 

これらはすでに崩壊を経験することで克服できたようだ。

しかし、ニーチェの思想を利用したデタラメはまだ「完全なる崩壊」を目の当たりにしていないが故にその流行は覚めそうもない。 

 

 

今こそ、立ち止まり別の選択肢を模索しても良い頃だ。

 

生きる意味とは何かーエマニュエル・カント

ニーチェに生きる意味を教えてもらうことはどうも危険らしい。

 

もう生きる意味を哲学することは無駄なのかと考え始めてしまうくらいにどうしようもない状況下に今はある。

 

ただ、私はその苦しみに対する光をカントに見出すことができている。

 

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〔共通感覚は〕誰もが我々の判断と、むしろ誰もが我々の判断と一致すべきであると主張する。この点で私は私の趣味判断を共通感覚の一つの範例として提案し、その故に私の趣味判断に範例的妥当性を帰するのである。エマニュエル・カント『判断力批判』

 

 

カントの偉大さとは、「生きる意味」を経験にではなく自らの内に秘められた力に求めたことにある。

 

これは、一見ニーチェの「自我」と近しいように見える。

しかし、ニーチェとの決定的な違いは、カントの場合、我々は「すべての人が普遍的に正しいと考える法則」の通りに生きることを推奨したところが挙げられる。

 

 

 

もちろんニーチェはカントのこの考えを「キリスト教の存在基盤」を無意識に前提としていると批判したわけだが、私はカントの考えを「キリスト教の基盤」と言って吐きすてることはできない。

 

 

というのもカントの思想に多大な影響を与えたバークが述べるように人間がアプリオリに相互に持っている共通認識がないと社会が成り立たないにちがいないからだ。

 

もし全人類に共通した感情の原理と同様、判断の何らかの原理がないとするならば、人生の通常の調和を維持するのに十分ないかなる支配も、おそらく人類の理性や情念に対してなされないであろう

エドマンドバーグ『崇高と美の観念の起源』

 

卑近な例で言うと我々は教えられたわけでもないのに、「美人だ」とか「ブスだ!」とか言っている。

 

「この顔はブスです」と教えられたのだとするとずいぶんひどい教育があるものだ。

そんなことはあるまい。

 

人間には、普遍的な価値尺度(カントの言葉を借りれば実践理性)は間違いなくある。

 

カントが古来の存在概念を破壊したとき彼が意図したのは、人間の自律性を打ち立てること、彼自身のいう人間の尊厳を確立することだった。カントは、人間を完全に人間自身に内在する法則のもとでのみ理解しようとした最初の哲学者、・・・人間が諸物野中の一つにすぎないような存在の普遍的な連関から人間を切り離そうとした最初の哲学者である。

ハンナ・アーレント『アーレント政治思想集成』

 

まとめよう。

カントは我々に生きる意味としてどう言っているのかというと、「我々はすでに善悪や美醜の判断がつく能力を生まれつき誰もが持っているのだから、それに従い突き進むべきである」というものなのである。

 

 

カントは我々の持つ可能性に最も迫った哲学者だったかもしれない。

 

 

生きる意味とは何かーカール・ヤスパース

最後に生きる意味を考察するのに力を貸してくれたのはその偉大さに比して知名度が圧倒的に低いカールヤスパースである。

 

一時期流行った時期もあったらしいが、カールヤスパースに関しては今や知っている人があまりに少ない。

 

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しかし、彼の哲学の偉大さはそれによって色あせてることがあってはならない。

 

前提を整える意味で、少し質問をしたい。

 

「哲学」と聞いてどのようなことをイメージするだろうか。

 

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こういう写真の男が地下の部屋にこもり四六時中一人で考え事をしているイメージだろうか。

 

 

おそらくそういうイメージがあるのは仕方あるまい。

しかし、哲学とは「個人による内省」を推進力とするものばかりではない。

これは偏見に他ならない。

 

 

「対話を通して納得解を作り上げる」という対話型の哲学というものもあるのだ。

それを明確に指摘し、思想としたのが、カールヤスパースだ。

 

カールヤスパースは自己一人ではいかなる「正解」にもたどり着けないと考えた。

 

なるほど私は自己一般を求めるが、しかしこれは私自身を見出すためであり、そして自己一般を見出すためにも私自身を求めるのである。私は私自身について問うとき、比較しえぬ者としての私自身については全く語り得ないということを根源的に経験する。

カール・ヤスパース『哲学』

 

これは「内省」の必要性を全面的に否定したものではない。

ただ、内省だけでは何もなしえないということをヤスパースは述べているのだ。

 

 

あらゆる人間は他者との交わりを避けられない。

それは、内省を推進力としたデカルトであれ、ニーチェであれ同じである。

 

私の由来を、私の開始として、客観化してみるとき、私は、自分の現存在が、私の両親の出会いということに結びつけられており、遺伝や教育によって、また社会学的かつ経済的情勢によって規定されたものであることを知る。私の開始は、絶対的な開始ではないのである。私の眼差しは私の開始を超えて背後へと遡り、そして私の開始が生成の結果であることを私は知る。私の誕生を超えて、視線は、この生成の涯てしない過程の中へと入り込むが、その過程の中では、いちばん最初の開始でありうるようないかなる根拠にも到達することがない。

カールヤスパース 『哲学』

 

人間は親という現存在から生まれてこざるをえないことを考えるとまず完全なる独立というものを成し遂げられるものはいないという個々の説明だけでも「交わり」のもたらす影響に前のめりになる方が賢明であろう。

 

 

兎にも角にもカールヤスパースの思想に基づけば、そういった自らの生きる意味というのは常に問い続けること(自分もだし他社も出し)でありそれから逃げたものは「人間でない人間」となってしまうということだ。

 

 

 

自らの生きる意味を哲学し続けること事態に「価値」を見出した例外的哲学者と言って差支えはなかろう。

 

 

終わりに

ここまで長きにわたる論考をお読みいただき誠に感謝の限りである。

論的には心もとない部分は多いと思われるが批判を歓迎したい。

 

 

最後に少しわたしの考えを。。。

 

この論調を見ればわかると思うが、私は今は日の目を見ていないカントとヤスパースの思想に大いなる可能性を見出している。

 

 

一方で、本屋でもたくさん並ぶニーチェの思想には危うさを感じてきている人間だ。

(もちろんニーチェの功績は色褪せないが、、、)

 

この偉大なる思想家の著書に少しでも興味を持っていただけたのであれば、ぜひ一度読んでいただければ幸いである。

 

 

カントとヤスパースの思想を集約し、わたしの考えをまとめれば以下のようになる。

 

我々人間には「経験的」にしか判断できないような能力しかないということはなくその可能性を信じることをやめてはならない。

と同時に、「他者との交わり」を通して自己完結的な「真理」に満足せず、常に問い続けることが極めて重要であるということだ。

 

 

おもしろきことなき世を面白く

 

Comments & Trackbacks

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  1. おもしろく拝読しました。私は随分長い間、生きる意味は、「思考」と思っています。また、生きる意味、という言葉を発した時の底なしの虚しさに対峙しつづけることとも考えています。思考しているという現経験そのものは否定できませんから。

  2. 落書きのような文章をまとめていただき誠にありがとうございます。私も近い考えを持っています。この観点で見た時にソクラテスという人物の深みがとても見えてくると私は感じています。

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