私は高杉晋作

頭がおかしいと言う人が「頭がおかしい」

「生きる意味とは何か」を哲学者はどう考えたか(前編)

約 9 分

「なぜ私は生きているのか」

「生きる意味がわからない」

「生きることに意味があるのか疑問だ」

 

 

こういうことをグーグル先生に質問する人というのが結構いるらしい。

月に結構な検索回数がなされている。

trends.google.co.jp

 

さて、あなたが学校の先生か子供を持つ母親か父親だとしよう。

 

 

子供が唐突に、

 

生きる意味とはなんですか」

 

と聞いてきたらどのように答えるだろうか?

実は、これは哲学における根源的な問いとも言われており、あらゆる哲学者たちがこの問いに答えようと人生の多くを捧げた。

 

その代表格が以下の6人である。

  • カール・マルクス
  • フリードリヒ・ニーチェ
  • エマニュエル・カント
  • セーレン・キルケゴール
  • マルティン・ハイデガー
  • カール・ヤスパース

 

最近は一回きりの記事が多かったが、久しぶりに長文となったため、2回に記事を分割した。あまり上記の哲学者に馴染みのない人も多いであろうから、平易な表現を使うことで私の方で補っていきたい。

  • 生きる意味とは何かーセーレン・キルケゴール
  • 生きる意味とは何かーマルティン・ハイデガー
  • 生きる意味とは何かーカール・マルクス

 

現代とは、生きる理由を通常は構成すると考えられているいっさいが消滅し、全てを問い直す覚悟なくしては、混乱もしくは無自覚に陥るしかない、そういう時代である。

シモーヌ・ヴェイユ『自由と社会的抑圧』

 

生きる意味とは何かーセーレン・キルケゴールー

私が読書会をしていて思ったのだが、セーレン・キルケゴールというのはどうも日本人にあまり馴染みのない哲学者であるらしい。

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それ故にいきなりここを読み飛ばされてしまうことを私は覚悟している。

 

ただ、読者諸氏には、このキルケゴールを過小評価していただきたくない。

 

ハイデガーやニーチェ、マルクスに知名度は劣るかもしれない。

 

しかし、彼らの哲学に先立って「生きる意味とは何か」を考え始めた「神なき時代」の最初の哲学者と言っても良いかもしれない。

 

自らの存在理由を問うた。

彼は個々人に迫り来る危険を以下のように述べている。

そしてまた、この世代は、連合というスケプシスを通じて水平化を行って、具体的な個人個人とすべての具体的な有機的機構とを排除してしまって、その代わりに人類というものを、人間と人間とのあいだの数的な平等性を手に入れたわけであるが、それからまた、この世代は、いかなる卓越したものによっても、どれほどわずかでも卓越したものによっても制限されたり妨害されたりすることもなく、見渡す限りただ「空と海ばかり」であるような、あの抽象的な夢幻性の広大な眺望に、束の間の愉悦を覚えるのだが、そのときにこそ仕事は始まるのだ。個人個人が、めいめい別々におのれみずからを助けなければならないからである。

セーレン・キルケゴール『現代の批判』

 

特に黒字の部分が重要で、ルソーを契機として広まった「平等」という概念の推進は、社会における個人と個人のすべての具体的な関係性を破壊した。

 

これはここには記述されていないが、階級制度やギルドなどを具体的にはさす。

 

で、これは喜ばしいものだと考えたわけだが、実は大いなる危機が迫っていたということをキルケゴールという哲学者は述べている。

 

近代以前の個人が生きる意味を公的に保障されていた時代の終わりをここに記載しているのだ。

 

 

それ故に、個々人が自らに生きる意味を自らの手で与えよと叫んでいるのだ。

 

では、キルケゴールは生きる意味をどのようにして模索したか?

それは、神への信仰に他ならない。

 

「なーんだただの宗教オタクか。。。」

 

 

とあなたは今思ったかもしれない。

ただ、そう考えるのは、尚早だ。

 

 

キルケゴールは確かに神を取り戻し生きる意味を自らに与えようとした。

しかし、彼は、結局「神からの近さ」と「神からの隔たり」の間で宙吊りとなってしまう。

 

 

 

なぜ完全なる信仰を手に入れられなかったか?

 

それはキルケゴールという哲学者自体が、信仰の中に「懐疑」を持ち込んでしまったからである。

 

 

これがなぜ言えるのかは『死に至る病』という哲学的名著をぜひ読んで解決してもらいたいが、彼の哲学は「死」(無)を意識することから哲学を始めてしまっているからに他ならない。

 

死という最後の希望さえも残されないほど希望を失っているということなのである。

セーレン・キルケゴール『死に至る病』

 

 

神がれっきとした信仰対象として生きながらえていたならば、「死後の世界」は保障されているはずであり、「死」と向き合う必要や「死」を恐怖する必要はないはずだ。

 

だが、キルケゴールは「死」と向き合うことを余儀なくされている。

こうして神に救いを求めたキルケゴールはあえなく自滅した。

 

生きる意味とは何かーマルティン・ハイデガーー

ハイデガーは20世紀最大の哲学者とも言われ、最難関とも言われる『存在と時間』でおなじみの哲学者である。

読んだことはないかもしれないが、名前だけは聞いたことがある人も多いだろう。

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彼は、生涯を通じて代表作『存在と時間』にも見られたように「我々の生きる意味とは何か」について徹底的に考えた。

 

このように存在への問いを仕上げるためには、みずからに固有な歴史に問いかけるべきであるという指針を受け取らざるをえなくなるのである。それは、問うことそのものが歴史的に問うことであることが、問いの最も固有な存在意味だからである。

マルティン・ハイデガー『存在と時間』

 

ここでハイデガーが考えた生きる意味について『存在と時間』を引用しつつ書いていきたいのだが、これがなかなか難しそうである。

 

彼の哲学は、それまでの哲学と一線を画するということを意図して、彼独特の言葉が多用されているのだ。(実存、現存在、内存在、頽落、、、、)

 

この言葉を含んで引用してもなんのこっちゃわからないと思われるので、ここでは、その弟子だったアレントの言葉を使いつつ、ハイデガーが考えた「生きる意味とは何か」を書いていきたい。

 

 

ハイデガーが『存在と時間』という8冊にもおよぶ大著の中で示したことというのは、「我々に存在している理由などない」という極めて単純なことだった。

 

これはかの有名な「実存は本質に先立つ」という言葉に集約されている。

 

 

この言葉は、他のあらゆるものは「必要性」にかられて生み出されたが、ただ唯一人間だけは先に本体がありそのあといろいろな規定をされているという「神=人間」という図式を構築した。

 

従ってまた、存在を無として特徴づけることによって、人間が、所与の物としての存在という定義を脱却し、自らの行為を神のようなものではなくまさしく神のものとみなす試みが生まれる。これが、ハイデガーの哲学においてなぜ無が突如として能動的になり、「無化すること」を始めるかの理由である・・・。

ハンナ・アレント『アーレント政治思想集成』(「実存哲学とは何か」より)

 

彼の哲学は、キルケゴールに影響を色濃く受けているのは言うまでもないが、まず「人間に存在の意味はない」というところから始め「無」を導き出すことで、「行為」へと走り出すものだった。

 

要するに「生きる意味」など考えてもないが、人間存在こそが世界の始まりであると考えることで能動性を確保したのだ。ただ、ここに残された存在とはアナーキーな存在に他ならない。

人間が、これまで長きにわたって神がそうであるとされてきた存在者としていったん見出されながら、その存在者がまたしても現実には無力であり、したがって「存在の主」などいないということが明らかとなったわけである。唯一後に残されるのはアナーキーな存在様態だけである。

ハンナ・アレント『アーレント政治思想集成』(「実存哲学とは何か」より)

 

生きる意味とは何かーカール・マルクス

カール・マルクス

 

それは以下の写真の男なのだが、教科書などで写真だけは知っているという人は少なくない。

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それとあと一般的なイメージとして共産主義者であり、ロクでもないことをしでかした人というのも付随されがちだ。

 

 

確かに、マルクスは、その組み立てた理論を実践したところキルケゴールやハイデガー同様にどうしようもないことになったのだが、彼の功績は大きい。

 

 

我々の労働観などはすべてマルクスが作ったものと言ってはばからないほどに我々のものの見方を構成している。

 

 

まあそれは置いておいて、マルクスも「生きる意味」について哲学する上で避けては通れない人物だ。

 

実は彼ほど参考にならないにもかかわらず、我々に教訓を与えてくれる人もいない。

ここではそれについて書いていこう。ここもマルクス自体の文献は少ないので、アレントの言葉を借りていく。(若干寄ってしまって申し訳ない。)

 

 

 

まず、結論から言うと彼は、「生きる意味」を当初は考えていたのであろうが、どうして我々が存在しているのかに対する「所与としての存在」という前提を放棄した男である。

 

そして、「自らが世界を変える」という「人間=神」という概念をハイデガー同様無意識的にではあれ持ち込んだ。

もはや世界を解釈するのをやめ、世界を変革するのだとマルクスが高らかに語ったとき、彼はいわば、存在と世界を所与のものではなく人間によって作られうるものと考える、新しい存在概念、新しい世界概念のとば口に立っていた。

ハンナ・アレント『アーレント政治思想集成』(「実存哲学とは何か」より)

 

 

彼の変革というのは大雑把に言えば、階級差をなくせばいい社会ができるはずだという考えだったのだが、それは瞬く間に瓦解した。

 

それについてはジョージ・オーウェルの風刺が極めてわかりやすい。

この世界には三種類の人々が存在してきた。即ち上層、中間層、下層である。

・・・グループ間の相互関係は、時代によって変化してきた。だが、社会のこの本質的な構造は決して変わらなかった。途轍もない変動や、取り返しがつかないと見える変化の後でさえ、このパターンは常に現れるのだ。

ジョージ・オーウェル『1984』

 

階級差をなくしたのに階級がまたできてしまったというものだ。

彼に学ぶべきは「生きる意味」を考えるのをやめた途端、自らを神と考えロクでもない方向に走るということだ。

 

 

これは、前述の二つの哲学者にも言えることで、「生きる意味など無い」「存在理由など無い」という結論を出してしまうと、自らを神のようにみなし、すぐさま「行為」に走るアナーキーな存在様態に成り下がるのだ。

 

 

下記のような人物が代表例であるが、歴史に学ばないとは恐ろしい。

おそらくまたのし上がってくるだろうと思うと恐怖しか無いものだ。

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以上で、前半部を終わりとする。

また後半については別途論考を認めるので、興味がある方は楽しみにしていただきたい。

 

面白きことなき世をおもしろく

 

 

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