私は高杉晋作

頭がおかしいと言う人が「頭がおかしい」

なぜ生きる意味がないと感じてしまうのか。ーヘーゲルの作り出した罠ー

約 7 分

非常に唐突ではあるが、(いや毎度のことでもあるが、)

 

 

生きる意味がない

 

そう私は毎日感じてしまっているだが、あなたはどうだろうか。

そうかそうか。感じているか。(空耳)

 

 

 

このわからなさ故に、私にとっては生きる意味がないということについての省察は人生における長らくの関心事だったりする。

 

 

 

しかしながら、最近いろいろな賢者と言葉を交わすうちに何かが見えてきた気がするのだ。一つのきっかけは、このブログでも何度か引用したことがあるが、若き日のマルクスの論考にある以下の言葉だ。

 

しかし、スミスによれば、多数の人が苦しむ社会はしあわせな社会ではないはずなのに、最も豊かな社会状態でも大多数の人は苦しみ、しかも国民経済は(一般に、私的利害を追求する社会は)もっとも豊かな状態へと向かうのだから、社会の不幸が国民経済の目的だということになる。

カール・マルクス『経済学・哲学草稿』

 

 

社会は科学によって毎日豊かになっている。

だから、我々は幸福になっているはずだ。

 

 

どうもこの論理が違うぞと考えたのが、マルクスだった。

むしろ不幸になってはいまいかと。

 

 

私はこの言葉ほど胸にくるものを最近見たことがない。

 

功利主義(マルクスの言葉を借りれば私的利害を追求する社会)は光の側面しか照らされない一方で、それが抱える闇は想像以上に深いのである。

 

 

今日は、各種書籍を見ながら思ったことをつらつらと書いていきたい。

  1. 功利主義の闇とは何か?
  2. あまりに当たり前の考えが抜け落ちている。
  3. 我々にとっての幸福とは何か

 

功利主義の闇とは何か?

今しがた述べたように私が思うに生きる意味がないと感じる最大の要因は「功利主義」の抱えるアポリア的側面にある。

 

 

功利主義のアポリアとは何なのかというと「私的利害を追求し続ければ、満たされるはずだと考えたにもかかわらず、むしろさらに満たされない気持ちが増していく状況」を指す。

 

 

この「無意味性」を加速させる世界についてレッシングが発した「役に立つことはいったい何の役に立つのか。」という言葉はどれほど説得力のある言葉かお分かり頂けよう。

 

 

 

 

ただ、ここで一つの疑問が湧いてくる。

「なぜ、多くの人が無意味に感じる社会が平然とまかり通るのか」と。

 

 

そう。これは難問だった。

ただ、これに対する答えは、アーレントが見事なまでに答えてくれていた。

 

読みながら涙したものだ。

 

 

 

それは、彼女曰くヘーゲルが提唱した「歴史」概念がすべての始まりだという。

つまり、「歴史」の概念がこの功利主義の無意味性を正当化するために使用されるということなのだ。

 

 

 

少しこの意味については補足をすると、こうだ。

 

局所的に人間を観察していくだけでは意味を持たなかった人間の行為が「歴史」というある広がりのある年表を広げた途端、意味を持つようになるということだ。

 

 

 

ここでわかることは、ヘーゲルの弁証法に基づく歴史観がすべての闇の始まりだったということに他ならない。

 

 

なぜなら、「君の毎日は君にとっては無駄だけど、何百年か先の人から見たとき役に立っているから」と言われているようなものだからである。

 

あなたは未来の人類のために犠牲にならなくてはならないことが生まれながらにして決められているのである。

 

 

 

だから、究極目標に向けて我々の行為はすべて「手段」へと転落させられる。

これは我々の行為が「意味」を持ちそうになった途端破壊されるという解釈でもよかろう。

 

功利主義のアポリアは、手段と目的というカテゴリーの枠組みそのものにある。それは、達成された目的一切をすぐさま新しい目的の手段へと転化してしまい、それによっていわば、意味が生まれそうになるや否やその意味を破壊してしまうのである。

ハンナ・アーレント『過去と未来の間』

 

平たく言えば、「自己犠牲ばんざーい」の社会なのだ。

どうりで生きる意味がないわけだ。

 

 

 

これをいいように語る書籍が時たま見られるが、あれには私は到底共感しえない。 

 

あまりに当たり前の考えが抜け落ちている

ヘーゲルの弁証法的歴史観が我々を無意味な活動へと強いることを正当化するとここまで書いてきた。

 

 

では、少し踏み込んでこの歴史観はなぜこのような問題を引き起こすかについてここでは書きたい。

 

 

結論から言うと、それは、「歴史」を語るにあたり、各々が固有性を持つ(複数性)という意味での「人間」がすっぽり落ちている見方にある。

 

 

 

この致命的な誤りはハイデガーの哲学にも見られた。

ハイデガーは、存在について最も考えた人間であったと言っても差し支えないが、彼の哲学には誰一人として具体的で固有な「人間」は出てこない。

 

 

ヘーゲルもハイデガーも何が問題だったかというと、本来ではそんな人はいないにもかかわらず、抽象概念としての「人間」だけで思考をしていたのだ。

 

 

 

このように正気の沙汰とは思えない「人間」の見方こそ、すべての悲劇の始まりであったのだ。

 

我々にとっての幸福とは何か

 では、我々にとっての幸福とは何か?

 

これに対しては、単一の解でもって私は答えようと試みたのだが、これは幾分困難を極めることがすぐにわかった。

 

 

そこで、妥協的な示唆を残すという形に変えてこの文章を占めたいと思う。

 

 

ひとつ言えることとしては、「一つの利害」(ここでは功利主義)が支配する社会ではなく、「多様な利害」が並存しうる状況において我々は幸せであると感じ得るのではないかということだ。

 

下記の文章は、そのことを言及したものだが私もこの著書に眼を通して実に5回目にして初めて自分にとって意味のわかる文章となった。

 

社会化された人類(マルクス)というのはただ一つの利害だけが支配するような社会状態のことであり、この利害の主体は階級か人であって、一人の人間でもなければ多数の人々でもない。肝心な点は、今や人々が行っていた活動の最後の痕跡、つまり自己利益に含まれていた動機さえ消滅したということである。

ハンナ・アレント『人間の条件』

 

あらゆる人々の動機がすべて功利主義における利害にすり替えられそれ以外の活動動機があったことすらも思い出せないくらいに我々を蝕んだとアーレントは述べているのだ。

 

「それして何の意味があるの?」

「それって価値あるの?」

 

こういう言葉を我々は日常的に聞くわけであるが、これがどれほど殺人的な言葉であるかはこれを読んで頂いた人であれば、もう説明するまでもないのではないか?

 

 

ところで、功利主義の世界において多様な動機を破壊された人間はどうなるのかについてアーレントは以下のように続ける。これが生きる意味がない人間たちの成れの果てのようだ。

 

残されたものは「自然力」、つまり生命過程そのものの力であって、全ての人、すべての人間的活動力は、等しくその力に屈服した。この力の唯一の目的は・・動物の種としての人間の生存であった。個体の生命を種の生命に結びつけるのに、それ以上に高い人間能力はもはや何一つ必要ではなかった。個体の生命は生命過程の一部となり、労働すること、つまり自分自身の生命と自分の家族の生命の存続を保証することだけが、必要であった。

ハンナ・アレント『人間の条件』

 

残された自然力に任せて、「食欲」「性欲」「睡眠欲」をとっかえひっかえしながら「自然」によって代謝されていくとのことだ。

 

こういった悲惨事象は「目的と意味の同一視」にあるわけだが、あらゆる過程は目的のための手段であり、その目的のための生命過程を助けることだけに集中すれば良いと考えさせられているのが、我々の現状なのである。 

 

 

 

 さていろいろ書いてきたが、、、

本稿において我々が読者諸氏に示したいことを最後に一行でまとめたい。

 

今、この功利主義の偏見に自らとらわれているということ、そしてそれの基盤となるヘーゲルの歴史年表の上で踊らされていること 、これらに気づくことであなたにとって生きる意味を探すための第一歩になる。 

 

 

ということだ。

 

 

面白きことなき世をおもしろく

 

 

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