私は高杉晋作

頭がおかしいと言う人が「頭がおかしい」

【誰も教えてくれない】「疲れがとれない」20代が世の中に溢れる理由

約 9 分

20代の方々、特に、最近どうも疲れがとれないということを感じている人に本記事を是非読んでもらえればと思っている。

 

 

まずあらかじめ断っておかなくてはならない。

タイトルを見ると勘違いされるかもしれないのでいっておくと、この記事内では20代で疲れがとれない人向けに解消法を書くというものではないことをご留意いただきたい。

 

 

ひょっとするとさらに20代の方々に疲れを感じさせる結果となるかもしれない内容を書いている。 

では、なぜ私がこのような文章を書くのかといえば、私自身が疲れを感じる中でその原因が気になったからだ。

 

 

 

プロレスラーの棚橋さんが「疲れたというと疲れるので疲れたとは言いません」という有名な話がある。

 

しかし私は、「疲れた」と言い続ける。何故なら疲れたからだ。

 

 

 

嘘をついても仕方ないのだ。

ニーチェは以下のように述べる。

 

個々の人々はこのような憂慮について何も知らぬかのように装っているが、我々の眼を欺くものではない。彼らの不安こそ、彼らがいかによくそれについて気づいているかを示すものである。

フリードリッヒ・ニーチェ『若き人々への言葉』

 

 

ただ、思想家を自称するからにはこの「疲れがとれない」という感情の正体を明らかにすることは義務だと思っている。

 

 

ということで、今日は20代の社会人を筆頭として疲れがとれない人向けにその実態を知るきっかけとなる記事を書いてみた。

 

あらかじめ結論を述べると、現代で良いとされている3つのキーワードに20代の人々の疲れがとれない原因がある。

  1. 消費
  2. 成長
  3. 安定
  4. 終わりにーこの偉人に学べ

 

1.消費

「もっと消費を増やさなければ」

「消費を増やすことが日本経済の再生につながる」

 

こういう言葉をテレビなどで経済評論家が言っているのをたびたびお聞きになったことがあるかと思う。

 

 

それ故に「消費」と聞いてポジティブなイメージを抱く人は少なくない。

しかし残念ながら、この「消費」というものの性質が20代含め多くの人に疲れを催す営みであることを伝えなくてはならない。

 

 

「消費」と言われてピンとこないかもしれないが、あなたの日常レベルに落とした例をあげよう。

 

 

例えば、休日に「予定が入ってない」時に、強迫観念に駆られたように「飲み」や「レジャー」「旅行」に繰り出そうとする人がいる。

 

 

あれは「消費」という言葉は使っていないがもちろん「消費」行為である。

 

 

こういった消費へと人々が駆り立てられる社会の状況をアーレントは「困難」と表現する。

大衆社会が抱える比較的新しい困難はおそらくはるかに深刻であるが、それは大衆自身のせいではなく、この社会が、本質的に消費者の社会、つまり閑暇が自己感性やより高い社会的地位の獲得のためにはもはや使われず、ますます多くの消費、ますます多くの娯楽のために使われるような社会であることによる。

ハンナ・アレント『過去と未来の間』

 

現代社会の困難は「消費」にあるとアーレントはなぜ断言するのか?

それについては以下を引用することで応えたい。

 

・・・問題は、消費者社会は、世界及び世界性を持つ現れの空間にのみ属する事物を気遣うすべを決して知りえない点にある。なぜなら、この社会がすべての対象に向ける態度、つまり消費という態度は、それが触れるものをことごとく無に帰してしまうからである。

ハンナ・アレント『過去と未来の間』

 

「触れたもの」を無にかえすというのがアーレントの語るコンテクストでの「消費」なのだが、この無世界性を生み出す「消費」が人々に言葉にならない疲労感を催しているのだ。

 

この人間の哀れな行動原理を一早く見抜いていた哲学者がいてそれはニーチェである。

人間は何も意欲しないよりは、むしろ虚無を意欲することを望むものである・・・。

フリードリッヒ・ニーチェ『道徳の系譜学』

 

20代の休日の過ごし方を聞いていくと「ネットサーフィン」「旅行」「友達とランチ」「ショッピング」「彼氏とディズニー」などなど金銭や時間の「消費」を主軸とした営みに終始していることを否定できるものはいまい。

 

あなたの何気ない消費行為があなたの言葉にしえぬ「疲れがとれない」の正体ではないか?

 

2.成長

続いては、多くの20代を虜にしておきながら実態が虚構に満ち溢れているこの言葉について話さなくてはいけない。

 

 

別記事では述べたが、私が社会人になって心底嫌いになった言葉でもある。

この言葉を聞くたびに眩暈がするのだが、あなたにもその経験はないだろうか。

 

 

なぜめまいをするのかを考えすぎてめまいを催しているのが私であるが、その理由は紐解くと「楽観的なオプティミズム」に心身ともに支配されているところにある。

 

確かに近代人は、着実に進歩する科学の見るからに悩みのない無批判的なオプティミズムによって、世界は現実的を地球から遠い地点に移動した。

ハンナ・アレント『人間の条件』

 

「成長したくないのか?」

 

と聞かれて「したくない」と言おうものなら地獄絵図となるのがこの世界で、20代にしてもう「成長したくない」と思っている私からすればこれほど生きづらい世の中もない。

 

 

「成長したくない」イコール「人間ではない」のだから心身ともにすり減らし永遠の運動を続けなければ「まとも」ではないことになる。しかし、この我々を縛るまやかしこそが20代の人々の疲れがとれない理由の一つに他ならない。

 

実態が退歩していようとも、彼ら・彼女らを縛る「成長」という観念は決して離してくれない。

 

これほどまでに疲れがとれない人々が増えているのだから成長どころか紛れもなく人々は退歩していると私は思っているが、、、

 

そして、結論としては、われわれの時代の特徴は、自分が過去のあらゆる時代以上のものであるとする奇妙なうぬぼれを持っているということ、いやそればかりではなく、いっさいの過去に不関知なるがゆえに、古典的規範的な時代を認めないのではなく、自分自身をすべての過ぎ去った生に優るとともにそれらには還元しえない一つの新しい生であるとみなしていることを指摘した。

ホセ・オルテガ『大衆の反逆』

 

この話は一つ目の話と無関係ではない。

先ほど書いた無世界性と結局同じである。

 

「神は死んだ」以降、世界自体が疑いの対象でしかなくなった結果、ほとんどの人間は「疑い得ないリアリティ」を自らの生命過程にしか感じられなくなった。

 

 

それ故に「成長」という名の自己肥大をイメージし続けることだけが彼ら・彼女らにとって数少ない頼みの綱となったのであり、それを崩されれば彼ら・彼女らは完全なる無世界にて死を迎える。

 

*補足するとこの「成長」という言葉の欺瞞性は、「身体的に」でも「精神的に」でもなく「功利主義における」という枕詞が常にへばりついているところにある。よく「精神的に成長した」と勘違いする人もいるが、あれは「功利主義世界」へ「適応」しただけの話である。そこに足を突っ込めば突っ込むほど永遠に戻ってこれなくなる。 

3.安定

最後が「安定」である。これも20代の人間の疲れがとれない理由の最後の一つだと私は考えている。 

 

就職人気ランキングを見ていくとここ最近は「公務員」が大人気で、それに金融機関を筆頭とした大企業なども並ぶという構図が続いている。

 

なぜこれらの職業は人気があるのか?

もちろんその理由は「安定しているから」に他ならない。

 

ただ、「安定する」という選択は、今も書いたように「終わりの始まり」である。

その理由はヴェイユが非常にわかりやすく書いているので引用したい。

 

何かの幸福のためではなく、必然に迫られて、ーなにかに引かれてというのでなく、むりにも押しやられて、ー今あるがままに自分の生存を保ち続けるために、ー努力すること、それは常に奴隷であるということだ。 

シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』

 

 

「生きるためだけにこんなにも多大な時間を浪費しなくてはいけないのか」という絶望感があまりに大きな疲れを20代の人々にもたらしてしまう。

 

 

 

以上、疲れがとれない理由を色々書いてきたが、個人的には我々の疲労感はこの悲痛の叫びに大部分が集約されているのではないかと考えている。つまり「安定」という鎖の破壊力はこの中でもずば抜けているのだ

 

 

「成長」に関してもこの「安定」が保証されない中では検討され得ないのはわかっていただけよう。

 

 

「生命過程の再生産のためだけに自分は生きています」という事実を認知した時に「前向き」な人間が仮にいたら是非話を聞かせて欲しいものだ。

 

4.終わりにーこの偉人に学べ

私が一連の文章の中で伝えてきた現代の病は以下に集約される。

 

「信仰」を失い、あらゆるものを無世界へと導く消費が跋扈する世界において、多くの人々が自らの生命過程にのみリアリティが感じられる状況にある。

 

この絶望感の中で彼ら・彼女らにとっては「軽率なオプティミズム」のみが生きる上での屋台骨となっている。

 

つまり、自らが前進しているというその感覚だけが、実態はその正反対であることを隠蔽する最後の砦だ。

 

ただ、ニーチェが述べたようにその感じている疲労感は紛れもなく限界がきており、その兆候をいつまで隠し続けるのかというところまできているというのが私の見解だ。

 

 

 

改めてだがこれほどまでに絶望的な時代に今我々は生きている。

そんな中、我々がすべきはそう言った時代の病と勇敢にも戦った偉人に学ぶ事である。

 

 

その偉人を最後に紹介したい。

 

その名はゲーテである。

ゲーテが丸善の平積みコーナーを埋め尽くす時代でなくてはならないというのが私の主張だ。

 

彼の功績は一言で言えば、近代社会の病理と最も勇敢に戦ったことだ。

 

 

ニーチェはゲーテを以下のように評する。

彼が欲したものは、全体であった。彼は理性、感覚、感情、意志の乖離と闘った。・・・彼は自己を全体へ向かって訓練した。・・・ゲーテがプランをつくり上げたのは、一個の力強く、教養高く、あらゆる現世的なものに長じ、自己を制御するすべをわきまえ、自己への畏敬を知る人間、自然らしさというものの持つ、あらゆる内包と豊かさとをあえて、自由に許すことのできる人間、このような自由にふさわしいほど十分に強靭な人間、寛容の人間、ーそれは弱さからではなくて、強さからである。

フリードリッヒ・ニーチェ『若き人々への言葉』

 

もちろんこの「全体」というのは全体主義へとつながる「没個性」とは全く意味が異なるので注意頂きたい。

 

個の力を保ちながら、その自己を制御するための「全体」の取り込みというコンテクストである。

 

 

ゲーテは「行き過ぎ」を知性により克服しようと試みた。

興味があれば是非『ゲーテとの対話』及び彼の作品を読んでみてはいかがだろうか。

 

疲れがとれない人々が今読むべき本である。

面白き事なき世をおもしろく

 

 

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