私は高杉晋作

頭がおかしいと言う人が「頭がおかしい」

「仕事でしたいことがない」「休日にしたいことがない」となるのは何故なのか。

約 12 分

あなたには「したいことがない」という悩みがないだろうか?

それは、仕事においても、休日においてもである。

 

 

ただただ、毎日を無為に過ごし「したいことがない」と時たま思うような生活を繰り返している。

 

 

私も、思索をするものとして自分自身この言葉についてずっと思い悩まされてきた。

 

ただ、何故仕事でも休日でもしたいことがないのかということについてある程度考えをまとめることができた。

 

 

 

したいことがない社会人や就活生すべての人にお役に立てることを書いたつもりである。

 

ちなみに「したいことがないわけがない」といった類の記事になることはないので安心してほしい。

  1. 「したいことがない人」で溢れる時代とはなんなのか
  2. 「したいことがない人」も「したいことがある人」も泥沼にはまる現代
  3. 我々が超克すべきもの

 

1.「したいことがない人」で溢れる時代とはなんなのか

*実は、この記事は、一つ前に書いた記事の延長なので、前回の記事を読んだ人にとっては繰り返しの部分がある。それをご容赦していただいた上で読んでいただきたい。

 

まず、あなたに仕事においても休日においても「したいことがない」理由について結論を述べると、「義務」、「倫理」、「習慣」といったあらゆる「徳」の崩壊が原因だと述べなくてはならない。

 

つまり、「したいことが見つからない」のは、あなたのせいではないというのが私の見解である。

 

 

一見「義務」と「願望」は両立しないかのように見える。

 

しかしながら、実は、「〜したい」という概念は「〜すべき」という「義務」の概念を意識しない所には発生しえないのだ。

 

 

 

偉そうに書いているが、このメカニズムについては私が述べたのではなく、とうの昔にカントが述べていた。

 

我々にとっての「自由」や「願望」は、「義務」と対立するものではない。「義務」というものがあって初めて、「自由」や「願望」を意識することができる。

 

それついてカントは『道徳形而上学の基礎づけ』において以下のようにのべる。

したがって欲望とは異なる意志を持っていることを自覚している理性的な存在者にとっては、意志の自由を実践的に、すなわち理念において、理性的な存在者の自由な選択に基づく行為のすべてを根底から支えている条件とみなすことは、他のいかなる条件もなしで必然的なことなのである。

エマニュエル・カント『道徳形而上学の基礎づけ』

 

 

ちなみにここで「義務などなくても欲望はある」という反論が予想されよう。

これについては、半分正解である。あなたの指摘は正しい。

 

というのも「食欲」と「睡眠欲」はいかなる一人で生きる未開人でも持っているからである。

それは確かに「したいこと」である。

 

 

ただし、「義務」をともなわない「欲望」は、食欲と睡眠欲にのみ限定されるし、あなたの求めている「したいこと」とはレイヤーが違うであろう。

(ちなみに性欲も含まれるかと思うが、ルソーは性欲すらも完全なる未開人では発生しえないと述べている。私はこちらの立場だ。)

 

 

 

それ故に、カントは若干説明不足なのだが、ここは好意的に解釈をしてほしい。

カントのコンテクストにおける「自由」な状態は前提に「社会に生きる人にとっての願望」というものなのだ。

 

 

 

結論としては、冒頭に戻るが、公的な倫理、道徳などの崩壊を前にしては、「義務」の観念が極めて希薄となるために、「したいこと」は見つからないのだ。

 

 

ちなみに「したいことがない人」がいかなる運命をたどるかについて少し書いておこう。

 

 

一言で言えば、「生命過程そのものの維持」に他ならない。

ハンナ・アレントは以下のような人間の誕生を50年以上も前に予想していた。

 

「公務員って安定してるしいいよね」

「息子の笑顔を見るのが生き甲斐」

「週末はAEON MALLで家族サービス」

「おお。そうか結婚するか。これでお前も一人前だな」

 

現代人の諸相を下記の文章は言い当てている。

肝心な点は、今や人々が行っていた活動の最後の痕跡、つまり自己利益に含まれていた動機さえ消滅したということである。残されたものは「自然力」、つまり生命過程そのものの力であって、全ての人、すべての人間的活動力は、等しくその力に屈服した。この力の唯一の目的は・・動物の種としての人間の生存であった。・・・個体の生命は生命過程の一部となり、労働すること、つまり自分自身の生命と自分の家族の生命の存続を保証することだけが、必要であった。

ハンナ・アレント『人間の条件』

 

 

したいことがない人って悲惨なのね。私もセミナーでしたいこと見つけよ!」とあなたは今思ってくれたかもしれない。

 

 

ただ、「したいことがある人の方が悲惨である」というのが私の考えだ。

それを次に述べていきたい。

 

2.「したいことがない人」も「したいことがある人」も泥沼にはまる現代

実は、あなたが羨ましそうに見つめている「したいことがある人」の方があなたのような「したいことがない人」よりも致命的な泥沼にはまっていることをここでは伝えなくてはならない。

 

 

私は、ここまで「したいことがない人」の生き方を否定するコンテクストで書いてきておきながら「したいことがある人」も否定的に書いてしまい、これにてあえなく周囲をすべて敵に回すのである。

 

 

もはや逃げ道はないのだが、シカトする前に少しだけ話に付き合ってほしい。

 

 

 

 

この「したいことがある人」がはまり込む泥沼というのは、前回記載したこととかなり近似するのだが、彼らは虚偽の「したいこと」に騙されることによってはまり込む。

 

 

ここでは、中傷を恐れず世の中の「したいことがある人」というものを分類しよう。

以下のような人が多いのではなかろうか。

 

  • 経済的成功(「金持ち父さんになる」だの「30歳で起業するわ俺」と言っているタイプ)
  • 会社が用意する「キャリアパス」という虚偽のレール、「市場価値を高める」という欺瞞
  • 権力自体(芸能人や政治家などデマゴーグ的職業、なんちゃってボランティアなど)

 

 

ここについては、「これになること自体」を否定しているわけではないことに注意頂き、その核心部分に着目いただきたい。

 

順に見ていこう。

 

経済的成功

私は読書を開始した当初「世の中で売れている」というだけで『金持ち父さん』や本田直之を筆頭としたビジネス書に手を出した自分を今でも悔やんでいる。

 

 

というのもあの手の本は読んだ瞬間にとてつもなく私を萎えさせる衝動が駆け巡ったからだ。凄まじいものであった。

 

 

そして読んだ瞬間に思ったのだ。「これが世の中で多くの人が理想とする生き方」なのかと。

 

 

 

そこで、何故「これが世の中の人間がしたいことなのか?」と私は1年ほど考え続けた。そしてある一定の考えを得た。

 

 

あの生き方がすこぶる私を萎えさせたものの正体とは、「自らの生命」を最高のものとするデカルト的自我の偏見に見事なまでに飲み込まれていたところに端をなしている。

 

そして自然の術によって「神が世界を造り、統治する」ように、人間が自分自身の世界を造り、支配する「人間の術」を確立するのに選ばれた方法は、やはり内省であり、「自分の内部を読むこと」である。

ハンナ・アレント『人間の条件』

 

この現代ではもっぱら賞賛される「内省」がもたらした病は想像以上に大きい。

なぜなら、「自分の内側を読むこと」によって向かう方向というのは突き詰めれば一つしかないからだ。

 

「自らを物理的快楽で満たすこと」に収斂していく以外にはない。

目に見えないものは「リアリティがない」から「価値」がないのである。

 

内省において近代人が経験できた最高のものは、精神が計算するという空虚な過程であり、精神が精神を相手にする戯れであった。そこに残された唯一の内容は、食欲と欲望に過ぎなかった。

ハンナ・アレント『人間の条件』

 

彼らは、「金持ち父さん」を愛好し、「本田直之」「神田昌典」をこれでもかと崇拝する。そして内省する。内省すればするほど、彼らは永遠に帰ってこれなくなる。

 

 

ただ、彼らは泥沼に入っていることに気づかないでいることができる。

 

 

なぜなら、彼らは*「経済的」尺度を筆頭とした指標を「成長する」という軽率なオプティミズムによって見立てることで永遠の幻想に自らをはめ込むことに成功しているからだ。

 

*年収、不労所得、転職市場における市場価値など、、、、

 

理解力を欠いていることによって、彼らは、正気でいられる。

ジョージ・オーウェル『1984』

 

本を読むという数少ない「精神性」を満たすものまで「いかにして金を稼ぐか」といった内省による物欲の充足を目的としたビジネス書を跋扈させた人間たちの問題点はいうまでもあるまい。

 

会社が用意する「キャリアパス」という虚偽のレール、「市場価値を高める」という欺瞞

これは、「したいことがある」と勘違いしている人のパターンとしては最も大きい割合を占める。

 

 

ちなみに私は、「上司に会社でしたいことがあるか?」と聞かれて「会社内でしたいことがあるという事象はありうるのか」と1ヶ月ほど考え続けた結果破滅したアホである。

 

 

例えば、私には、「今季は、営業成績でナンバーワンになりたい」ということを自分の「したいこと」にしている人の気持ちがわからない。

 

例えば、私には、「春には営業企画でもっと自分を成長させたい」ということを自分の「したいこと」にしている人の気持ちがわからない。

 

例えば、「今の仕事場で成果を出せば転職市場で評価される」という人もよく見かけるが、これも一向に気持ちがわからない。

 

 

 

ただ、こんなことを言おうものなら「あなた成長したくないの?人間失格ね」という返答が返ってくることはバカな私もわかるのであり、あえていうことはしなかった。

 

 

 

カール・ヤスパースがいればこの問いを一緒に考えたいほどにこの疑問に答えてくれる人はいない。

 

 

なぜ私はこれらに賛同できないのかということを考え続けたのだが、これらにはある共通点があることに気づいた。

 

 

 

その共通点とは、もちろん「成長」という誰もが否定できない観念を振りかざしながら、実態としては「交換価値」という人間存在を「退化」させる運動であるという虚偽の部分である。

 

労働が生みだす「価値」は全て完全に「社会的」である。

ハンナ・アレント『人間の条件』

 

「交換(市場)価値」を高め「社会的」に貢献するという命題には虚偽が2つ隠されている。

 

一つが、「交換価値」というものが今すでに述べたように、「人間存在」を貶める行為だということであり、もう一つが、「社会的」という言葉が、「物理的快楽」を満たすというデカルト・ニーチェが生み出した偏見を原動力とした「内省」に蝕まれている点である。

 

 

なぜこの虚偽は暴かれて解消されないのかというと、その主張の妥当性は「不確定の未来」でもって証明できるというロジックにある。

内容がいかに荒唐無稽であろうと、その主張が原則的にかつ一貫して現在及び過去の拘束から切り離されて論証され、その正しさを証明しうるのは不確定の未来のみだとされるようになると、当然にそのプロパガンダは極めて強大な力を発揮する。このようなやり方は、過去が疑わしく現在が耐え難くなった危機の時代には必ず威力を揮うものなのである。

ハンナ・アレント『全体主義の起源』

  

権力自体(芸能人や政治家などデマゴーグ的職業)

最後になるが、「したいことがある」人たちの中で、「政治家になりたい」「芸能人になりたい」といったデマゴーグ的職業に憧れる人たちがいる。

 

 

これは、ついつい見逃されがちだが一定数いると見ている。

職業にすると分かりにくいが卑近な人間の種類としては、「Facebookで友達を作ることに命をかけている」人や「交流会に暇があれば繰り出すような人」たちだ。

 

 

彼ら・彼女らは、「facebook」で友達を作ること自体が「目的」であり、その絶え間ない「運動」の虜となっている。

 

 

何故ああいうことが起こるのかというと、「権力」自体を獲得することが目的になっているからだ。

権力は手段ではない、目的なのだ。・・・迫害の目的は迫害、拷問の目的は拷問、権力の目的は権力、それ以外に何がある。そろそろ私の言うことがわかってきたかね

ジョージ・オーウェル『1984』

 

これはもちろん冒頭に挙げた「徳」の崩落の結果現れた人間の種類なのだが、実は、そのようなアナーキーな世界で行き場を失った人間たちにとっては「権力の獲得」というものが本能となるとはるか昔に予測していたのがホッブズ*である。

 

人類全体に共通する一般的な傾向として第一に挙げられるのは、絶えず突き上げてくるやみがたい権力欲である。それは、生きている限り静まることがない。そのような欲が生ずるのは必ずしも、既に得ている満足感よりも密度の濃い満足感を望むからではない。また、ほどほどの権力では満足できないから、というわけでもない。むしろ、満足の行く生活を保つべく現有の権力と手段を維持しようとすれば、さらに多くの権力と手段を獲得しなければならないからだ。

トマス・ホッブズ『リヴァイアサン』

 

*ホッブズは正確には「自然状態」を「絶え間ざる闘争状態になる」と述べる誤謬を犯した。正確には、後年ルソーが著書の中で「社会状態」で「絶え間ざる闘争状態になる」と批判し修正されたこともあり、正確にはホッブズとルソー双方の理論を合わせたものである。

 

3.我々が超克すべきもの

 

仕事したいことがない人」「休日したいことがない人」そう言った人に伝えたいことは一つである。

 

まず、したいことというのは「内省」を原動力としている間は見つからない。

もちろんその偏見に蝕まれた本を何百冊読んでも見つからない。

 

 

 

「社会的」に定義される「成功者」や「名著」と呼ばれるビジネス書すべてが「内省を推進力とせよ」と一言で言えば述べているのだが、これだけに救いを求めた途端後戻りできなくなる。

 

 

あなたは周囲を見て欲しい。

じーっと見つめて欲しい。

 

 

そうすればわかると思う。

世の中がおかしいことに。

 

 

カントは述べた。

 

人間には全員が普遍的に「これは正しい」という判断をすることができる「理性」が存在すると。それを「実践理性」と述べたのだ。

 

 

 

それに身を委ねれば、自ずとカントが述べた「したいこと」(=しなければならないこと)が見つかるはずだ。

 

おもしろき事なき世を面白く

 

 

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