私は高杉晋作

頭がおかしいと言う人が「頭がおかしい」

死にたい助けてと毎日考える私が思うこと

約 6 分

死にたいという人がグーグルを見るとどうも増加傾向にあるらしい。

 

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「世界一平和な国なのに。。。」という話は今に始まった事でもないけども、毎日電車で人身事故が起こって電車が止まるのを聞いたりしているとふと思ってしまう。

 

 

現代社会というのはあまりに病んでいないだろうか?

今日は、死にたい助けてという事をよく思い描いてしまう人向けに記事を書いてみた。

 

  1. 死にたい助けてとなぜ考えてしまうのか
  2. 死にたい助けてと考える人がしてはいけないこと
  3. 死にたい助けてと考える人がすべきこと

 

1.死にたい助けてとなぜ考えてしまうのか

実は、偉そうに文章を書くように見せかけて、私自体が「死にたい助けて」と毎日思っている人間である。

 

 

そう。苦しんでいる人間だからこそ、なぜ「死にたい助けて」という感情は湧いてくるのかと人一倍考えている。一応のヒントが最近得られたのでそれを話していこうというのが今回の趣旨である。

 

 

 

そのヒントは、この世界にある「あらゆる人間を一つにまとめあげようとする運動」を認識することで成し遂げることができた。

  1. 上司
  2. 同僚
  3. 友達

 

あなたも薄々きづているだろうが、この社会はいたるところで上記のような人間が「共感」や「同意」という言葉の重要性を叫びながら運動に取り込もうとしてくる狂気が「常識」の世界である。

 

 

 

それ故に、あらゆる「個性」は「逸脱」とみなされる。

 

 

 

例をあげよう。

あなたは次のようなことを思ったことがないだろうか。

 

「なぜあの上司はここまで死に物狂いでくだらない飲み会への参加を強制するのか」と。

 

 

この「共感」を求めるあらゆる行為の「タチの悪さ」は彼らの「善意」にある。

 

つまり、彼ら・彼女らに悪意があれば我々も抵抗のしようがあるが、「善意」から同調させようとしているのだからこちら側としてはもう死にたいと思わざるをえないわけなのだ。

 

 

 

拒絶を示せばどうなるかといえば、「善意で言ってやったのに」と我々を「悪」に仕立て上げ「弾圧」運動が始まるのである。

 

あの人間たちからすると我々は「治療対象者」であるようなのだ。

 

 

 

実は、昨今もてはやされる「共感」という名の「圧力」はある価値観に支えられているということをご存知だろうか。

 

 

この「共感」という名の「圧力」は、実は他でもない我々の「内省」や「自責」に支えられているのだ。

・・・人間が自分自身の世界を造り、支配する「人間の術」を確立するのに選ばれた方法は、やはり内省であり、「自分の内部を読むこと」である。

ハンナ・アレント『人間の条件』

 

我々のほぼ全てが「自分の内側を読むこと」ですべてを解決しようと謀ることを当たり前だと思っているし、それを習慣づけられている。

 

実際、これ以外に解決方法がないと言わんばかりにすべての人がうまくいかないときに「自分の内側を読む」ことに挑戦し現実に合わせて自分自身を書き換える。

 

また懐疑的もしくは反抗的な態度を誘発する恐れのある思索は、以前に習得した内面の規律によって、事前に沈めてしまうのだ。・・ニュースピークでは犯罪中止と呼ばれる。・・・犯罪中止とは要するに、「自己防衛的愚鈍」である。

ジョージ・オーウェル『1984』

 

 

しかしこの「解決」が真に問題を解決しないことも少なくない。

「解決」という名目で「弾圧」されるのだ。

 

 

ちなみにヒトラーはユダヤ人を殺害する命令を<最終的解決>と呼んでいたらしい。

「死にたい助けて」と感じている我々はもちろん<最終的解決>の対象者である。

2.死にたい助けてと考える人がしてはいけないこと

そういった中で、「死にたい助けて」と考える人がしてはいけないことを話したい。

 

それはもちろん、今あげた「内省」「自責」である。

 

こういうことを言うと、「人間失格」であるかのような印象や「開き直るきかこのクズ人間が!」とあなたが感じたかもしれない。

 

しかし私から言わせれば、その反応をする時点で「自責」と「内省」にあまりに毒されている。ジョージ・オーウェルの述べた「自己防衛的愚鈍」を平然とやっているのではなかろうか。

 

 

 

一つ断っておくと「自責」や「内省」を完全否定しているのではない。

しかし、あまりにこちらに傾きすぎた世の中でどれほど多くの人が犠牲になっているかを考えて欲しいのだ。

 

 

会社でも休職する人は後を絶たないし、毎日のようにJRの中央線は人身事故が起きている。

 

でも「何もなかったかのように運動が止まらない」異常な状況に多くの人は何も感じていない。

そこに迷い込んだ人間たちはもはや存在していないかのように、彼の身に起こることはもはや誰にとっても問題にならないかのように取り扱われるということである。

ハンナ・アレント『全体主義の起源』

 

 

「内省」や「自責」というのは「論理の組み立て」により自分自身を世界に順応させようとするわけだが、実はもうこの「論理の組み立て」により順応を試み始めている時は「終わりの始まり」に瀕している可能性が大いにあり、今すぐにでも阻止しなくてはいいけない愚行である。

 

ルターは、論理的推論の強制力はすべてのものに見捨てられた人間にのみ全面的な力を発揮できるのだということを理解した。

ハンナ・アレント『全体主義の起源』

 

大前研一を読んで「論理力」を鍛えようとしているならやめたほうがいい。

余計に「死にたい助けて」と考えることが増えるだろう。

 

 

「論理性」がなければ「良いか・やばいか」の判断がつきかねるのだろうか?

 

3.死にたい助けてと考える人がすべきこと

「死にたい助けて」と考える私も含めた多くの人たちは、社会に入ったあの瞬間に感じた強烈な眩暈を思い起こす必要がある。

あの時感じた眩暈こそすべての苦しみの始まりだった。

 

学校での子供は、成績の良い生徒であっても良くない生徒であっても、存在を認められたひとりの人間であり、周囲の人々はその子の成長を促すべく、その子の最良の感情に訴えてきた。ところが卒業から一夜明けるやたちどころにして、その子は機械の単なる付属に、事物ですらない何かに成り下がる。・・・労働者の大半は、少なくとも人生におけるこの移行期に、ある種の内的な眩暈とともに自分はもはや存在していないという印象を抱かされる。

シモーヌ・ヴェイユ『根をもつこと』

 

 

私は眩暈を「社会に出た時」に感じてきた。

  • 初めての会社の飲み会
  • ベルトコンベアー作業
  • 初めての社内会議

 

ただ、それに「順応」しようと「自責」や「内省」を重ねてきた。

その愚行を我に返ったときに私の身は滅びかけていた。

 

 

 

もちろん、私を含め「死にたい助けて」と考える人がまともなのか、社会がまともなのかそれを断言することは私にもできない。

 

しかし、何らかの目に見えない「運動」が人びとの「個性」や「自由」を粉砕する嗜好性を持つならばそれは断じて従っていい「権威」ではない。

 

 

「善意」を持って近づいてくる人間が「善」ではないし、「内省」「自責」が常に「善」でもない。

 

 

 

 

 

 

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