私は高杉晋作

頭がおかしいと言う人が「頭がおかしい」

【コラム】「SNSがうざい」と言いながら人々がSNSをやる理由

約 10 分

「友達のSNSの投稿がうざすぎてブロックしたわ」

 

「会社の上司の投稿がうざい

 

SNSうざい投稿多すぎてやめようか迷っている」

 

 

私の記憶が正しければ、ミクシィが全盛の頃から「SNSうざい」と語る人間は一定数いた。そしてその数は、年月を経るごとに増えていたという印象もあった。

 

ただ下記サイトを読むに利用者数の総和は減るどころか増えている。

 

■ 日本のSNS利用者は2015年末に6,451万人、2017年末には6,912万人へ拡大

ICT総研|市場調査・マーケティングカンパニー

 

日本の人口の6割近くがLINE Facebook Twitter Instagramのいずれかをやっているのが上の指摘から読み取ることができるが、これは携帯を持たない高齢者層を除けば、相当な数であると言っていいだろう。

 

 

私以外で、LINE Facebook Twitter Instagramをやっていない人間をあなたも見たことがないのではなかろうか。

 

(広義ではブログもSNSだという人もいるようだ。ただ交流が主目的ではないので今回は省かせていただく)

 

 

今日は、「SNSうざい」と言いながらやめない人々を観察した結果について書いてみた。

  1. SNSをうざいと人々が感じるケース
  2. なぜSNSをやめたいのにやめられないのか?
  3. SNSは人々を救いうるか
  4. まとめ

 

1.SNSをうざいと人々が感じるケース

手始めにいろいろなサイトを手当たり次第に探索した。

以下は書くにあたり参考にしたサイトだ。(あんまりリンク貼りすぎるとスパムになるらしいので、これくらいで。)

リア充投稿うざいッ!と感じたら…SNSを上手にスルーする方法 – モテージョ

あなたは大丈夫!?SNSでウザがられる行動とは? – ワビサビTシャツ

異性からうざがられているSNSの投稿 – 「自撮り」「ごはん写真」「ポエム」 | マイナビニュース

【男の本音を語る会】こんな女は嫌だ。SNSうざいやつの実態 | Boy.[ボーイ]

 

 

SNSうざいと言われるのには共通の理由があった。

 

 

結論から述べると、なぜうざいと言われるのかは、人々が描く「もう一つの世界(ユートピア)」に対する期待とは裏腹にあまりに「欺瞞」と「虚構性」に満ち溢れた世界だからである。

 

 

この結論の妥当性を検証していきたい。

*あらかじめ、断っておくと「うざい」に関しての統計的なカウントをするまでの精緻な調査ではないところはご容赦いただきたい。

 

まず、「うざい」と言われるSNSの投稿に関して共通理解を深める意味で、「うざい」と言われる投稿のグループ分けをした。

 

すると以下の3つになった。

(一言で言えば、すべて「自己顕示」に尽きるのだが)

  1. 自撮り系
  2. 意識高い系
  3. あまりにどーでも良すぎる系

 

1.自撮り系

まず、Instagramという私は名前しか知らないSNSがどうも拍車をかけたらしいのだが、とにかく「自撮り」系はあらゆるサイトにおいて「うざい」と評されていた。

 

芸能人でもない素人が自分の自撮りをやたらに投稿することがどうも理解しかねるようだ。

私も行為者が何を意図してこのおようなことをしているのか理解に苦しむところではある。

 

2.意識高い系

こちらも結構多いようである。

 

具体的には、以下のようなものがあった。

  • 政治や経済のニュースにコメントを長々と書く人間
  • 「今こういうビジネスやイベントに関わっています」系
  • 「留学してました」系

 

ブログで見る場合、「痛さ」は感じられないのに、何故SNSに投稿すると痛いのだろうか。(「お前の投稿も痛いけどな」という投稿も甘んじて受け入れるつもりだ)

 

3.あまりにどーでも良すぎる系

 

最後はもはやカテゴリーと言っていいか自信がないところではあるが、見た瞬間どーでもいいと相手に突っ込ませる内容であったりもはや本人すら興味がないのではないかと疑いを持ちたくなるような投稿のグループだ。

 

具体的には以下のようなものが多かった。

  • 「〜に旅行行きました」系
  • 「〜という料理作りました」系
  • 「彼氏や彼女との写真」などのリア充自慢と呼ばれるもの

 

まあ他人からすれば「どーでもいい」ことこの上なかろう。

 

 

今、この文章を書いていて思ったのだが、おそらく私は日本人のほとんどを敵に回すことを書いているかもしれない。

 

 

というのも今あげたものをSNSのタイムラインから差っ引くと何も残らないし、LINEでの会話のほとんどを否定している気がするからだ。

 

 

ただ、これは私だけの独善的な意見ではなく、多くのブロガーが書いていたので、私だけを責めるのはやめてほしい。

 

 

2.なぜSNSをやめたいのにやめられないのか?

では、これほどまでに人々が内心では疑問を感じているSNSをなぜやめられないのか?という話になってくる。

 

というのもうざいならやめればいいからだ。辞めたいならば、すぐにやめられる。

 

だけど、やめられないというリアルがそこにはある。

なぜなのだろうか。。。。 

 

 

 

これは人間がSNSに何を期待しているかを紐解くことである一定の見解を得られた。

それは、一言で言えば、「人間味ある世界」だった。

 

 

 

誤解なきように、ここでいう「人間味ある世界」というものを定義しておくと、物理的対象・抽象概念としての「人間」を超えでることが可能な領域を指す。

 

ある人の「正体」というのは、その人がなしうることや生産しうるものよりも偉大であり、重要であると信じることは、人間的自負にとって欠くべからざる要素である。

ハンナ・アレント『人間の条件』

 

現代ではもはやその環境が壊滅的であることから必要性がわからないという境遇に我々はいるが、ある主体が「何者であるか(Who)」を示すことは、「何ができるか(What)」といったスキルやステータスよりはるかに人間生存における必須要件である。

 

 

「壊滅」と今私は書いたが壊滅させたものの筆頭はもちろん「労働」である。

我々が日常の大半を過ごす「労働」の世界はあまりにこの「人間味ある世界」とはかけ離れている。「何ができるか」という機械的側面ばかりが注目される。

 

むしろ、労働こそ、反政治的な生活様式である。なぜなら、この労働の活動力の場合、人間は、世界とも他人とも共生せず、ただ自分の肉体と共にあって、自分自身を生かし続けるためにむき出しの必要と向かい合っているからである。

ハンナ・アレント『人間の条件』

 

確かに「労働」に於いても人々との「共同作業」は存在する。

 

 

しかし、「共同」の方向性がこれまた本質的に非人間的である。

なぜなら「労働」は、人々の「個別性」や「アイデンティティ」を捨象させることを強いるからだ。

 

しかし、このような「労働の集団的性格」は、労働集団の各メンバーに、認識でき確証できるリアリティを与えるものではない。それどころか反対に、個別性やアイデンティティの意識をことごとく本当に棄て去るよう要求する。

ハンナ・アレント『人間の条件』

 

少し話がややこしくなったので、整理したい。

 

 

大前提として、人間にとって個別性やアイデンティティ(「私とは何か(Who)」)を表出する場というのは生存要件である。

 

しかし、真逆の事を強いる「労働」などが跋扈するこの世界においてはそれが壊滅しつつある。

 

 

その無世界性にあえぐなかで多くの人がしがみついたものがSNSという「砂漠」だったわけだが、、、

 

砂漠に耐えかねた人々が現状の存続を恐れるあまり移住を図ったその先もまた砂漠であったということだ。

 

3.SNSは人々を救うか

では、なぜSNSはこの「人間味のある世界」の代替物になりえなかったか?というところに話が映そう。

 

これについては3つあると私は考えている。

  1.  行為に広がりを持たない「制約性」
  2. 相手に解釈を委ねる「恣意性」
  3. 意味を常に「目的」に紐付ける「非人間性」

 

一つ目から見ていこう。

 

まず一つ目について言うと、「人間味のある世界」とはその「制限の突破」「境界性の破壊」が必要不可欠であるのだが、SNSにはこれとは対照的に制約と境界だらけであるゆえに「人間味ある」世界にはなりえないということだ。

 

・・・活動というのは、それがどんな特殊な内容のものであっても、常に、関係を打ち立てるものであり、従って一切の制限を解き放ち、一切の境界性を突破するという固有の傾向を持っている。

ハンナ・アレント『人間の条件』

 

これはいろいろな解釈が可能なので、一例をあげるにここでは留めたい。

 

確かに、行為者はSNSによって「自分が誰か(Who)」を発信することができる。

ただ、そこからの発展性はおおよそないと言って良いのがSNSだ。

 

 

というのも「対話」が始まろうものなら「意識高いしねよ」と一蹴されるのがオチだからだ。そう言われなくても「言われるであろう」という恐怖感が「対話」へと繋げることを妨害する。 

 

 

あまりに多くの人に監視されていることから行為者は、虚偽のWhoを出すことすらしばしばあり、「対話」が導く「人間の個別性(複数性)」どころか収斂する先は「うざい」と言われないための「沈黙」か誰もが受け入れうる「単一性」に向かうのみである。

 

 

 

続いて二つ目の相手に解釈を委ねる「恣意性」であるが、これは文章であることに起因している。つまり文章であるがゆえに、「人間味ある世界」にはなりえないということだ。

 

 

人間というのはなぜそうなのかはわからないがこのすさんだ世界では「悪意」をもって物事の解釈することを得意とする。 ニーチェは、そのことに最も早く気づいた一人だ。

 

あなたがかれらに寛大であっても、かれらはあなたから軽蔑されたと感じる。そしてあなたの恩恵に対して、ひそかに外信を抱いて行動する。

フリードリヒ・ニーチェ『ツァラトゥストラかく語りき』

 

 

これにより行為者のWhoも相手の悪意により捻じ曲げられることは少なくない。

それゆえに真に行為者のWhoを表出する「人間味ある世界」とは到底言えないのだ。

 

 

最後に移ろう。

 

先ほど、常に目的を求めることを「非人間的」と揶揄した。

なぜ目的を立てることが非人間的なのか?

 

 

それは、「目的」というものが、あらゆる事柄を排除し、ある一つの事柄しか許容できない排他性を備えているからだ。

 

察しの良い読者諸氏には、今の説明で、「目的」が「人間とは何か(Who)」の個別性を求めることができる「人間味ある世界」においてはあってはならない要素だとすぐにおわかりいただけるであろう。

 

 

 

しかし、SNSにおいては「目的」なき行為を許容できない。

 

わかりやすい例を挙げると、「目的」が容易に推測しえない投稿などはその典型で「意味」が分からないので「うざい」となっているか。

近代世界においてますます深まりつつある無意味性を、おそらく何よりもはっきりと予示するのは意味と目的とのこうした同一視であろう。意味は行為の目的ではありえない。意味は、行為そのものが終わった後に人間の行いから必ず生まれてくるものである。

ハンナ・アレント『過去と未来の間』

 

 

現代社会は「目的」を常に求めるという姿勢を「インテリジェンス」の代名詞として賞賛しているが、「人間味ある世界」という探求においては「目的」を持つことは何度も言うように破滅的なのである 。

4.まとめ

最後に一連の文章を簡潔にであるが、まとめたい。

 

 

まず、SNSうざいという感情を抱いていながらそこを手放さないメカニズムだが、、、、

 

現代人は、世界があまりに無機質な非人間的世界であることを無意識のレベルで感知することはできている。

 

そこで、逃走を図ったわけだ。

 

しかしながら、その逃走先(SNS)も皮肉なことにまた砂漠であった。

 

 

というのも「人間味ある世界」において必要不可欠な「対話」を何ら埋め合わせるものではなかったからだ。

 

「ユートピア」と「現実」がここまで違うということはSNSを作った人も予測しえなかったであろう。

 

 

「制約」「恣意性」「目的」に縛られ続けるSNSは、人間としての生存要件を妨害する役割しか果たし得なかった。

 

 

SNSという砂漠は今後も手を変え品を変え現れてくるだろうが、本質は全て砂漠である。ここには何も我々が求めるものがないということはある種確信をもって予言しておきたい。

 

 

 

今復権が求められているのは、植樹である。

砂漠から砂漠へ移動しても疲弊がさらに蓄積するだけなのだ。

 

時間はかかろうとも「人間味ある世界」の復権に我々は尽力しなければならない。

 

面白き事なき世をおもしろく

 

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