私は高杉晋作

頭がおかしいと言う人が「頭がおかしい」

【決定版】これがクズ人間の特徴

約 7 分

「こいつもしかしてクズ人間?・・・・」

 

あなたはふと友達に対して上記のような考えを思い浮かべたことがないだろうか。

一度や二度ではないはずだ。

 

 

 

ただ、世の中を見渡してみると「クズ人間」と呼びたくなる人間は少なくないように思える。私もその例に漏れず目を覆うような経験を度々したことがある。

 

 

 

では、読者諸氏に尋ねたいことがある。

 

 

今私が述べたような「クズ」と呼ばれる人間とは如何なる人間のことを指すか?と聞かれてあなたはその特徴をすぐに答えられるだろうか。

 

 

そう。実は、思ったほど答えることは簡単ではない。

ちなみに私はこの考えをまとめるのに2年もの月日を要した。

 

 

 

今日は、2年の月日を経てまとめた「クズ人間」とは何かを書いていきたい。

 

具体的には、クズ人間に普遍的に当てはまる特徴を書きつつ、そのクズ人間がそうなった理由と治療法を書いていきたい。

  1. クズ人間とは結局なんなのか
  2. あの友達はいかにしてクズになりえたか
  3. クズの治し方

 

1.クズ人間とは結局なんなのか

私は、このクズ人間というものの特徴を徹底的に分析し続けた。その期間実に2年。

当初リサーチは本当に難航していた。

 

  • 当日に無断で約束をドタキャンする人間
  • 「飲み会行くのは社会のルール!」 という人間

 

こういったサンプルはいくつもあった。

しかし、いくら集めようとも、クズ人間を明確に定義することはできなかった。

 

 

ただ、悩みに悩んでいたある日、突如としてその答えが分かったのだ。

 

 

「コペルニクス的転回」により私はクズ人間について一つの解を得たのだった。

どういうことかを少し書こう。

 

世間的なクズの定義付け

  • 女遊びにだらしない→クズ人間
  • 約束を守れない→クズ人間
  • 飲み会を強要する→クズ人間

 

世間一般的には、先ほども書いたが、上記のように「帰納法的」に、もしくは「経験論的」に定義することがほとんどだ。

 

もちろん上記のような人間は一般的に「クズ」とされるのはほぼ間違いないだろうが、核心にどうしても届かないのだ。

 

 

実はこの検証方法こそが、クズとは何かに終止符を打つことができない最大の理由だった。

 

コペルニクス的展開に基づく定義付け

そこで、私は発想を180度転換することを試みたのだがそうするとこうなった。

  • 人間が普遍的にもち合わせる理性を見失う→クズ行為をする。(飲み会を強要する、約束を破るなど)

 

 

我々自身を因果関係の出発点とすることで「クズ人間とは何か」がわかったのだ。

 

 

上記の命題に基づけば、クズ人間とは、生来全ての人間が持ち合わせている「理性」を何らかのきっかけで見失ったもしくは欠落させた人間たちなのだ。

 

 

ついつい我々は、「外的な」方に「原因」を求めてしまいがちだということを不覚にも痛感させられてしまった次第だ。

 

 

この発想は誰から頂いたかといえば、もちろんエマニュエル・カントである。

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カントは、当時のヒュームをはじめとした人間は「経験」に全てが委ねられているという「経験主義」の考えに唯一疑いを持った天才だった。

 

 

カントが一体何を主張したのかというと、人間には、経験から判断するパターンはもちろんあるが「生得的」に自らを出発点として判断するケースがしばしばあるとしたのだ。(アプリオリな判断)

 

*カントは二つを併用するパターンについてもあると述べている

 ところが理性が法則を定めるために必要なのは、理性が自らだけを前提としなければならないということである。

エマニュエル・カント『実践理性批判』

 

これの例を一つあげよう。

先ほど書いた「約束を守らない」人間というのはこのカントが述べる「理性」を失墜している典型的な人間だとわかる。

 

 

なぜなら、「約束を守らない」を逆に普遍的「法則」とした場合に、自分自身が破滅するからだ。

 

 

もちろん「すべての人間が約束を守らない状態」というのは経験していないが、そういったことを直感的に把握しているのだという。

 

 

実は、宗教というのはこう言った人間普遍に当てはまる「理性」を言語化したものではないかとカントは述べる。

 

私は、基本的にこの考えに賛成で、仏教もキリスト教も、儒教もどうも似たような徳目が散見されるからだ。

 

*補足するとカントと宗教信者の違いは、あくまでカントは「神」ではなく、「人間」を出発点とする形而上学にこだわったところにある。 

 

随分と前置きが長くなった。

 

私はこれが言いたかった。

 

人間には経験せずとも「善」と「悪」を判断する能力があるということ。

 

このことを忘れた人間が今極めて危機に瀕しているのだと。

 

もし全人類に共通した感情の原理と同様、判断の何らかの原理がないとするならば、人生の通常の調和を維持するのに十分ないかなる支配も、おそらく人類の理性や情念に対してなされないであろう 

エドマンドバーグ『崇高と美の観念の起源』

 

2.あの友達はいかにしてクズになりえたか

私が何が言いたいのかをここでおさらいしておくと2つある。

 

  1. クズ」と呼ばれる人間は人類が「理性」を保っている間においては存在しないということ。
  2. この理性を失調した人間は「自分すらもが疑わしい」状況にあるということ。

 

 

個人として最もしてはいけないことでもある「自らに対する責任を放棄すること」を実施してしまった人間こそが、クズ人間の正体だった。

 

カントは人間は他人に対する義務を負う前に、自分に対する義務を負うことを指摘しましたが、カントのこの一貫性のある論理は、偉大な哲学者に特有のものです。

ハンナ・アレント『責任と判断』

 

 

 この思考停止の恐ろしさについては、ブログでは5万回ほど述べているところである。

思考とは、沈黙の対話における<一人のうちの二人>であり、これが意識に与えられた私たちのアイデンティティのうちの差異を現実のものとします。そして思考はその副産物として良心を生み出します。

ハンナ・アレント『責任と判断』

 

では、あなたの友達はいかにして「クズ」になったのかというと、自分自身に対する絶望からきた以外には考えられない。

 

これに関しては、キルケゴールが素晴らしい指摘をしている。

 

絶望するものは、何事かについて絶望する。一瞬そう見える。しかしそれは一瞬だけのこと・・・同じ瞬間に、真の絶望が表れる・・絶望するものが何事かについて絶望したというのは、実は自己自身について絶望したのであって、そこで、彼は自己自身から抜け出ようと欲しているのである。

キルケゴール『死に至る病』

 

我々にとって最大の絶望とは「自己自身への絶望」であると。

そして、その瞬間自らから抜け出そうという試みをしてしまう。

 

人間というあらゆる原理の「出発点」であるはずの場所からの逃走を図った先には「虚偽の世界」しかないにもかかわらずだ。 

 

3.クズの治し方

 クズを治す方法は「古典を読め」ということに尽きるのだが、すでに思考停止している人間に古典を読めと言ってもヒルナンデスをみはじめるのがオチである。

 

 

だから、ここの解決に関しては、非常に難しい。

ただ、一つだけあると思っている。

 

 

それは、あなたのようなまともに「良心」を残しているものが、少しづつでも「思考する」環境を提供することだと思っている。

 

 

現代社会というのは、「労働」を筆頭に「思考する」場所が著しく少ない場所で溢れている。

 

ちなみにここでいう「思考をする」とは「答えを出すこと」ではない。 逆だ。

「問いを出すこと」である。

 

 

だからこそ、「コンサル会社」のエリートサラリーマンだろうが、思考停止の病に陥っている可能性は十二分にある。

 

 

クズ人間は死ね」では世の中は変わらない。

そう私は気付いた。

 

 

砂漠の大地でいかに生きるかではなく、緑をもたらすことを考えるべきなのだ。

おもしろき事なき世を面白く 

 

p.s

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