私は高杉晋作

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私は高杉晋作

頭がおかしいと言う人が「頭がおかしい」

休日の過ごし方に関する論考ー明日友達に伝えようー

休日の過ごし方

 

と言われてあなたならどう答えるだろうか。

  • 彼女とデート
  • 映画を見に行く
  • 自己啓発セミナーに参加する
  • 友達と飲み会

 

 

まあ、いろいろあるだろう。

ネットを検索していると、「いけている社会人の休日の過ごし方」「20代女性の休日の過ごし方」「友達と休日に行くべき場所」といったコラムで溢れている。

 

 

ただ、残念ながらこの休日の過ごし方というのは、一つ誤れば休みどころか自らをすり減らす所業となることを私は伝えなくてはならない。

 

今日は、私の考える休日の過ごし方について論考を寄稿したい。

  1. 平日とは何かについて
  2. 己をすり減らす休日の過ごし方について
  3. 今取り入れるべき休日の過ごし方について

 

*本論考は「前向きに生きる人間」にとって極めて不快なものとなっている可能性があります。それにご留意された上で、ご観覧ください。

 

 

平日とは何かについて

まず、平日というのは何か?

 

これに答えるには、平日に我々が何をしているのかということを我々は考えなくてはいけない

 

それは、一言で言えば、「労働」である。

では、「労働」とは何か?

 

 

これは、マルクスの言葉を借りれば、「人間による自然との新陳代謝」である。

マルクスは、労働を「人間による自然との新陳代謝」と定義付け、・・・・労働が生産するものは、すべて、人間の生命過程を再生しつつ、肉体をさらに維持するのに必要な新しい「労働力」を生産・・・する。

ハンナ・アレント『人間の条件』

 

ここで、「自然」というのは独特の意味合いを含むので、咀嚼したい。

マルクス及びアーレントの考えに基づけば、労働とは「個人」というものを消失させ、「社会」というものに対して代謝されるかのごとく奉仕することを指すのである。

 

 

 

この「個人」というものを消失させるというところがポイントで、これがあらゆる「労働」に見られる特徴であるとともに、これが「個人」に苦痛を伴わさせる最大の要因でもある。

 

 

しかし、我々は「労働」から抜け出すことができない。

なぜならば、「労働」は我々の生命を再生産するにあたってはなくてはならないものだからだ。

 

実際、背後に何も残さないということ、努力の結果が努力を費やしたのとほとんど同じくらい早く消費されるということ、これこそ、あらゆる労働の特徴である。しかもこの努力は、その空虚さにもかかわらず、強い緊迫感から生まれ、何物にもまして強力な衝動の力に動かされている。なぜなら生命そのものがそれにかかっているからである。

ハンナ・アレント『人間の条件』

 

空虚であろうとも「労働」へと駆り立てるのは、それはそうしなければ死ぬからというのが簡潔な言い換えとなる。

 

つまり、我々にとっての平日とは、「生命を再生産するため」に捧げなくてはならない理不尽な時間とも言える。

 

 

 

おそらくここで想定される反論として「私は個人として尊重されて働けている」「私は仕事が楽しい」というものだろう。

 

 

 

これに対して私の理解がないわけではない。

しかし、私の今ここまで述べてきた労働への論考とあなたの語るみんなが楽しく働いている世界とでどちらが一般的であろうか考えていただきたい。

 

 

それは、いうまでもなく、後ろ向きに生命の必然性にかられて働いている人に他ならないのではないか。

 

 

というのも私はあなたのような恵まれた労働者を「プロレタリアのブルジョア化」と呼ばせていただいているのだが、これは帝国主義時代のイギリスにも見られたことだ。

 

イギリスはアフリカの人間を奴隷のように働かせることで、プロレタリアでありながらブルジョアのように豊かな生活を送れるようになった。

 

 

 

これは、今プロレタリアとして楽しく働いている人間にも言えることである。

 

 

要するに、自分の下に多くの奴隷のように働く人を抱えることで、プロレタリアでありながらブルジョアのように振る舞うことができているのだ。

 

 

ちなみにこのカテゴリーはホワイトカラーやブルカラーという大分類で分ける人もいるが、正確には正しくない。

 

ホワイトカラーでも奴隷のようになる人もいれば、ブルーカラーでもブルジョアのようなプロレタリアはたくさんいる。

 

 

 

で、こういうことを言うと、間違いなく多くの偽善者から私は嫌われるわけだが、「みんなが楽しく働ける」ということは自らが苦境にいる人間であれば口が裂けても言わないことであり、それを言えているあなたは本当の「労働」というものを知らないのだ。

 

この世界には三種類の人々が存在してきた。即ち上層、中間層、下層である。

・・・グループ間の相互関係は、時代によって変化してきた。だが、社会のこの本質的な構造は決して変わらなかった。途轍もない変動や、取り返しがつかないと見える変化の後でさえ、このパターンは常に現れるのだ。

ジョージ・オーウェル『1984』

 

*さらに一点補足

 

「労働の苦痛を取り除こう」という打倒ブルジョアを掲げて革命に取り組んだのがカールマルクスであることは有名であろう。

 

彼は、「階級差」(ピラミット)を破壊すれば、多くのプロレタリアが救われると確信していた。そして彼は理論を緻密に組み立てた。

 

 

しかし、実践してみて何かおかしいことに気づいたのだ。

崩したはずの階級が、また姿形を変えて出来上がっていたのだ。

 

 

こうしてマルクスは自滅したのだが、今の日本でも大企業を潰そうとする共産党のマニフェストなどは歴史に学ばない馬鹿としか言いようがない。それを潰したところで、状況はさらに悪化するだけなのは目に見えているのだ。

 

 

己をすり減らす休日の過ごし方について

さて、随分と平日についての話が長くなったが、ここから休日の過ごし方についての論考を進めていく。

 

この話については、明日友達とランチがあるのであれば、必ず話して欲しい内容である。

 

 

まず、やってはいけない休日の過ごし方、つまりあなたをすり減らすだけの休日の過ごし方というのがあるので、それについて少し筆を進めたい。

 

あなたの休日の過ごし方があなたを蝕むものとなるかどうかの査定に関しては、「功利主義のカテゴリーに組み込まれているか」という問いを元に判断をすることができる。

 

 

この「功利主義のカテゴリー」とは「生産→消費」のとめどないサイクルのことを具体的には指す。

大衆社会が抱える比較的新しい困難はおそらくはるかに深刻であるが、それは大衆自身のせいではなく、この社会が、本質的に消費者の社会、つまり閑暇が自己感性やより高い社会的地位の獲得のためにはもはや使われず、ますます多くの消費、ますます多くの娯楽のために使われるような社会であることによる。

ハンナ・アレント『過去と未来の間』

 

「消費」という言葉を聞いてあなたは私とは異なりいいイメージを持っているかもしれない。

 

それはテレビなどで首相などが消費を増やすことが日本を豊かにするというプロパガンダを張っているからである。

 

 

これは、未だに世間的に受け入れられていないが、「消費」というのは断じて増えることが望ましいものではありえない。

 

というものは、「消費」は解体を本質とし、対象物への不敬はもちろんその解体がもたらす我々への虚無感も含めネガティブな側面で溢れているからだ。(もちろん消費はせずには生きられないということは考慮している。)

 

なるほど使用すれば解体は避けられない。しかし、使用にとって、これは付随的なことである。ところが他方、消費にとっては、解体こそ本質的なものなのである。

ハンナ・アレント『人間の条件』

 

ここで、「使用」という言葉とアーレントは「消費」を意図的に使い分けを行っているが、私もこの使い分けには賛成で、「使用」においても対象物が減損することは避けられないが、「消費」との決定的な違いは、対象物への経緯と摩耗した後でも残る「愛着」(+敬意)にある。

 

 

 

まあ、いろいろと小難しい話をしてきたが、「消費」を本質とする休日の過ごし方に与することはあなたの虚無感を増幅させることはあれど、決してあなたの憩いとはならないということが私はここで述べたかった。

 

 

あなたの今の休日の過ごし方は「消費」を本質とした営みではなかろうか?

これにはあなたしか答えられない。

 

ただ終わった後に残る「空虚な感情」、、、

それが、一つの判断基準であろう。

 

 

今取り入れるべき休日の過ごし方について

 

さて、

私が考える休日の過ごし方を最後に述べて論考を締めたい。

これに関しては友達にも勧めてもらいたい。

 

まず、生物学的な本能を満たす領域からの脱走を推奨したい。

 

閑暇とは、我々が生命過程に不可欠な一切の気遣いや活動から解放され、それゆえ、世界とその文化への自由を手にする時間である。これに対して空虚な時間の方は、本性からして生物学的であり、労働や睡眠がそのしかるべき時間を受け取った後の残余の時間である。娯楽が充たすと思われている空虚な時間は、生物学的に条件づけられた労働の循環つまりマルクスの言う「人間と自然の物質代謝」の中にある隙間に過ぎない。

ハンナ・アレント『過去と未来の間』

 

現代の娯楽産業とは食欲、性欲、消費欲、、、

 

こう言ったもので溢れているが、すべての欲というのはブッタ的に言えば、本質的にアポリア的側面を持っている。

 

一人の女を抱いた男が浮気心を抱くというのは女性諸君には申し訳ないが、実は致し方ないことだったりするのだ。

 

 

ある欲求を満たそうとする活動はすべてそれが達成せられた途端に次のさらなる刺激へと移行し、それを連鎖的に繰り返す羽目となる。ゴールにたどり着いたと思えば、そこはスタート地点となり、次なるゴールに向けて走るということを永遠にさせられるというイメージだろうか。

 

 

そういった中で、我々にとっての憩いとは功利主義が要求する欲求の再現なき肥大化から抜け出し「何もしないこと」「生理的欲求」から抜け出すことである。

 

 

ある種これは「禁欲主義」と言われるかもしれないが、このループにいるという自己認識を行うことからまずは一つの光が差すことは間違いない。

 

さて、あなたは休日を如何様に過ごしているだろうか。

消費をして空費する、、、そしてそれを毎週のように繰り返す。。。

 

 

何年後かにあなたはもう抜け殻となるであろう。