私は高杉晋作

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私は高杉晋作

頭がおかしいと言う人が「頭がおかしい」

【独自コラム】働き方改革とは何か?

最近一つのトレンドキーワードとも言える言葉がある。

 

それが今タイトルにも入れている「働き方改革」というものだ。

 

 

 

「・・・・だから、日本は働き方改革が必須である。」という言葉が色々な場所で聞こえてくるのは私だけではなかろう。

 

 

で、この働き方改革というのは本当に実効性があるのかということを私は思想家としてはきになるところだったりしたわけで、それを調べてみた。

 

 

今日は、「働き方改革とは何か」ということを書いた上で、それでは何も改革されないという私の持論を展開していきたい。

  1. 働き方改革とはなんなのかできるだけわかりやすくまとめてみた
  2. なぜこの働き方改革ではダメなのか?
  3. 本当の意味での働き方改革とは何か?

 

 

働き方改革とはなんなのかできるだけわかりやすくまとめてみた

早速だが、私の論考に入る前に前提を整える必要がある。

その意味で、働き方改革とは何かということを以下になるべくわかりやすく書いていく。

 政府がとりまとめた繁忙期の残業時間の上限を1カ月100時間未満とする案について、左右両派から非難の声が上がっている。規制強化を求める労働者側からすれば、法律に「100時間未満」と明記されれば、そこまで働かせることが「合法」だという意識が広がり、かえって残業を助長しかねないと危惧する。一方で、ソフトウェア開発やクリエイティブ系の仕事に就いている人たちは、納期前に集中的に仕事をするなど自分のペースに合わせるのが当たり前で、一律に時間で規制されては仕事がやりにくいという声もある。果たしてこの「上限100時間未満」は、働き手にとって朗報なのか、悲報なのか。

「繁忙期残業100時間」は朗報か? 悲報か?:日経ビジネスオンライン

 

 

 

ここに書かれている内容が政府が出した「働き方改革」の全貌であり、「働き方改革とは何か」に対する答えとも言える。

 

まあ平たく私の解釈を加えると「残業時間の上限を今まで曖昧にしていたので、具体的な数値で決めましょう」というものである。

 

今までは、努力目標だったり、抜け穴がいっぱいあったことから過労死を誘発するザル法に成り下がっていた各種法律の水漏れをせき止めようという意図があるのである。

 

 

ここでは、「単月の労働時間の上限を100時間」にするというところが、特に今までにない点として各種メディアが取り上げている。

 

 

飲食や販売サービス系、IT系に従事する人からすれば、残業200時間などということもも聞いたことが私自身あるので、そういう労働者側からすると朗報である。

 

 

一方で、この働き方改革の「単月労働時間の上限を100時間」にするというのが逆に「100時間は働かせることができる」という風に、経営者が利用できるという意味で、批判されている。

他にも時間の投入量が成果に相関がないクリエイティブな職種な人に弊害を催すというものもある。

 

 

 

まあ、いろいろと他にも細則はあるのだが、この上限値の設定により労働時間を減らし、働き方改革を実現しますというのが自民党の方針なのである。

 

さて、ここから私の論考に進めていく。

 

なぜこの働き方改革ではダメなのか?

今ここで「働き方改革」の推進度を測るものとして「時間」が何にも増して重要視されていることは先程の日経ビジネスの引用を見ても明らかであろう。

 

 

他の箇所も総じて言及されているのは「時間」であり、それだけが問題として扱われている。

 

 

では、「時間」を減らすことが働き方改革につながるのか?ということを考えてみたときに、もちろん部分的には影響はあるのだが、そこは本質ではないというのが私の考えである。

 

 

では私の考える「働き方改革」を実際に為すために最も大切な指標とは何かというと「思考」がキーワードとなる。

 

思考という項目が現代の労働環境ではあまりに軽視されているということである。

というのも思考の余地が薄れれば薄れていくほど同じ時間の労働であっても苦痛の度合いが全く変わるのだ。

 

これを数値化するのは極めて不可能に近いのであるが、この重要性に関しては下記のヴェイユの記述が極めて我々の理解を助けてくれるので引用させていただきたい。

 

集団行動でもこれに類する差異が認められる。職工長の監視下で流れ作業に携わる労働者の一団は、哀れを誘う光景である。一方、一握りの熟練労働者がなんらかの困難に足止めをくらい、めいめいが熟慮し、さまざまな行動の有り様を呈示し、他の仲間に対する公的な権威の有無にかかわらず、誰かが好走した方法を一致団結して適用するさまは、みていても美しい。かかる瞬間にあって、自由な集団の表彰はほぼ純粋な形であらわれる。

シモーヌ・ヴェイユ『自由と社会的抑圧』

 

人間の行為に「意味」を持たせるためにはそこには必ず「思考」の余地が必須なのである。

 

この「思考」領域を破壊した場所に挑む人々にとってはその取り組みは自らの生命過程を助ける以外のなんの意味も持たず「苦痛」と無意味性がもたらす「虚無感」につきまとわれます。

彼にとって、織ること、紡ぐこと、掘ること、等々としては何の意味もなく、ただ食卓についたり飲み屋の椅子に腰掛けたりベッドに横たわったりすることを可能とする稼ぎ口としてのみ意味を持つ。

カール・マルクス『賃労働と資本』

 

 

アーレントもアリストテレスの言葉を借りて以下のように述べている

アリストテレスによると、奴隷が欠いている二つの性質とは熟考して決断する能力と予見し選択する能力である。

ハンナ・アレント『人間の条件』

 

本当の意味での働き方改革とは何か?

 

私の考える働き改革が何かはもう言わずともわかっていただけると思うが、最後にそれをまとめて終わりとしたい。

 

 

まず、働き方改革においてまずもって求められているのが、労働者が「思考」を司ることなく単独ではなんの意味持ち合わせない「無意味な行為」に突っ込まれている現状の改善である。

 

 

思考の余地が消し飛んだのはなぜかというと「行きすぎた分業化」にその原因を求めることができる。

 

 

分業というのは「会社としての生産性」の観点から見た場合には、突き詰めることが求められるのだが、この分業は行きすぎた場合に、労働者としては「無意味な」行為に従事させられているという感覚が極めて強くなり、精神的な苦痛を感じやすくなる。

 

 

それ故に、人間としての尊厳、つまり人間個人の生産性という観点から見た場合に、分業に「節度」が必須となるのだ。

 

もちろんヴェイユが言うように、会社の設立背景を考えればそれは極めて難しいものであることはまちがいないけれども。

 

肝要なのは、特定の方向に全力で邁進することではなく、ある種の最善の均衡を見出すことなのだが、こちらの方がはるかに難しい。

シモーヌ・ヴェイユ『自由と社会的抑圧』

 

こういう時に言われることがある。

 

 

「実現がほぼ不可能なこと」を考えて価値があるのか?と。

 

 

 

確かに功利主義的な意味でいうと「価値」は何も生み出さない。

 

 

 

しかし、「価値」は常に「目的」に宿るものではないということをあなたには伝えたい。

こうやって思考すること自体(過程)に著しい「価値」が宿ることもあるのだ。

 

 

そういう意味では、各個人が働き方改革とは何かについて「思考」してもらうことが一番「働き方改革」につながるのかもしれない。

 

面白きことなき世をおもしろく