私は高杉晋作

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私は高杉晋作

頭がおかしいと言う人が「頭がおかしい」

豊洲問題とは一体なんなのか?ー小池百合子が支持される世の中とはー

最近私はニュースピックスというニュースのサイトを使っているのだが、頻度高く出てくるニュースがある。

 

 

それが築地市場を豊洲へと移転するニュースである。

ほぼほぼ毎日のようにニュースがあがってきては、「小池百合子が既得権益と戦っている」という姿が映し出されている。

 

 

もちろん小池百合子の問題を指摘する記事もなくはないが、概ね「小池百合子が悪の枢軸と戦っている」という論調に溢れている。

 

 

私はどちらの立場なのかというと、移転賛成派でも反対派でもない。

なぜならわからないからだ。

 

 

正直、豊洲問題について科学的知見があるわけではないので安全かどうかと言われるとわからない。(築地よりはマシというのは建物を見たことがあるだけになんとなくそうと考えているが、、、、)

 

 

まあそれはそうとして豊洲問題とはなんなのかについて私は歴史を見返すと見えてくるものがあると考えている。

それは一言で言えば、小池百合子による権力拡大の「手段」である。

 

 

彼女のやり方は、全体主義指導者や専制君主が行ったやり方ときわめて似ているのだ。

今日は、豊洲問題とはなんだったのかについて考えたことを記録として記載したい。

 

  1. 豊洲問題がなぜ小池百合子の権力拡大の手段といえるのか
  2. なぜ我々は小池百合子を支持してしまうのか
  3. 豊洲問題から我々が考えるべき根本的な問いが見えてくる

 

*豊洲移転の是非を科学的に検証する論考ではないのでそれを期待されている方は読まない方がよかろう。

 

豊洲問題がなぜ小池百合子の権力拡大の手段といえるのか

まず、改めてこの豊洲問題とはなんなのかというと、それは小池百合子が夏にある都議会選挙で権力を掌握するための手段である。

 

 

というのもどうも偶然とは思えないタイミング(7月)に都議選があるということが、まず非常に注目すべき点である。

 

 

小池百合子は、ここで過半を取らないと自らの為すがままに物事を進められなくなってしまう。

 

そのために小池百合子には何が何でもこの選挙で過半数をえなくてはならない。

ただ、今議会には小池百合子が保有する議席はない。

 

既存の政党がひしめく東京の選挙区戦において一度の選挙で勝つにはどうすればいいとあなたなら考えるだろうか?

 

 

 

ここで、私は歴史に学ぶわけだが、基本的にその答えの一つとして多くの「政治に関心がない層」を如何に取り込むかということが最も重要となるそうだ。

ファシスト運動であれ共産主義運動であれヨーロッパの全体主義運動の興隆に特徴的な点は、これらの運動が政治的には全く無関心だと思われていた大衆、他のすべての政党が馬鹿か無感覚で相手にならないと諦めてきた大衆からメンバーをかき集めたことである。

ハンナ・アレント『全体主義の起源3』

 

ここでは、ヒットラーのケースを書いたが、日本でも小泉純一郎や橋下徹という元政治家は巧みにこの無関心層をかき集めてきた。(橋下さんの場合は紙一重で失敗に終わった。ただそのうちまた出てくるだろう。)

 

 

 

では、どうやって政治に関心がない層をかき集められるのだろうか?

何せ、一般大衆というのは、(私も含め)政治に関心というのは薄い。

 

 

なぜなら、毎日を生きることで精一杯だからである。なくて当然といっても良い。

トックビルがこの本質をズバリ記しているので以下に引用したい。

つまり働かずに生きていける余裕がどれだけあるか、この点が民衆の知的進歩の超えがたい限界をなしているのである。

アレクシ・ド・トックビル『アメリカのデモクラシー』

 

 

 

だからこそ、権力を掌握しようと考える人間はどうするのかといえばそんな忙しい我々現代人にでもわかるレベルでの「単純化」を行うわけだ。

 

そして繰り返しそれを伝播させる。

 

 

下記の文章は「小池百合子とは何か」というタイトルに置き換えて呼んで差し支えないほどに説得力のあるヒトラーの言葉である。

宣伝はすべて大衆的であるべきであり、その知的水準は、宣伝が目指すべきものの中で最低級のものがわかる程度に調整すべきである。・・・宣伝におよそ学術的教授の多様性を与えようとすることは、誤りである。大衆の受容能力は非常に限られており、理解力は小さいが、その代わりに忘却力は大きい。この事実からすべて効果的な宣伝は、重点をうんと制限して、そしてこれをスローガンのように継続的に行われなければならない」

アドルフ・ヒトラー『我が闘争』

 

今おそらく東京都にはいろいろな「争点」があるであろうが、「豊洲問題」に集約する動きが起こっているのはほぼほぼ間違いない。

 

なぜなら、私自身がもはや東京都にはその問題しかないのではないかと思うほどにそのニュースしか目にしないからだ。

 

うーんと絞り込まれ要約されたプロパガンダだけを見て我々は政治活動への参加をする。これがどれほど危険なことであるかはいうまでもない。

 

なぜ我々は小池百合子を支持してしまうのか

「小池さんならやってくれそう」

「小池さんいいね。わかりやすい!」

 

こういうインタビューが知事選の時以来街頭インタビューなどとともに繰り出されるのを幾度となく見てきた。

 

 

これを見るたびに、何故これほどまでに同じことを繰り返すのかと私は悲しい思いをしてきた。

 

 

というのもついこの前支持していた小泉純一郎・竹中平蔵を「悪の枢軸」にしたり、鳩山由紀夫を支持したかと思えば、「悪の枢軸」にしたりというパターンと小池百合子は全く同じパターンだからだ。

 

 

なぜまた同じように小池百合子を支持できるのかというところが疑問でたまらないのだ。

 

仮に100歩譲って小池百合子が豊洲問題を本当に考えるような偉大な人物であったとしてもだ。我々は疑いの目を向けるのが普通ではなかろうか。

 

 

 

実は、この「英雄誕生への渇望」というのは社会が極度に危機に瀕している際に、現れてくると多くの知者は考えていた。

疑いもなく全体主義運動はそれ以前の革命的な政党や運動よりもラディカルに規制の諸関係に戦いを挑んだ。・・・勿論この影規制の原因の一半は、根無し草と化し現状の存続を何にも増して恐れている大衆の心の底に潜む熱望にある。

ハンナ・アレント『全体主義の起源3』

 

社会の危機とは何かというとここに書かれているように、現状の存続を何よりも恐れる人たちが溢れている状況を指す。

 

これは、どれくらい絶望しているかというのは数値で把握することも大事であろうが、私は科学者ではないのでそこについてはご容赦位いただきたい。

 

ただ、現状の存続を恐れる社会においてはある共通項がある。

それは、個人が「何をなすべきか」という規範や秩序意識、習慣が崩壊しているということが言える。

 

自由は欲するとなしうるとが一致する場合に初めて生まれるのである。

ハンナ・アレント『過去と未来の間』

 

「〜をすべき」というのは我々に「めんどくささ」を感じさせるものだと思いがちだが、真に自由とはそのような義務の感覚なしには成り立ちえないのである。

 

今やバークの言葉を借りれば「固定観念」の一切が崩壊し、あらゆる人が自らの進むべき道を見失い暗闇の中でアトム化している。

 

 

だからこそ、場当たり的に小池百合子のような人間に期待を載せてしまうのだ。

 

 

 

 

 

ずいぶんと話がそれたように見えるかもしれないが、まとめるとこうだ。

 

豊洲問題を利用した小池百合子の政治運動がうまくいっている背景に現代社会の人々の絶望感(シニカルな感情)を巧みに利用しているからということである。

 

 

豊洲問題から我々が考えるべき根本的な問いが見えてくる

現代は、「何をすべきか」という習慣や秩序意識というのが崩壊している。

だからこそ、短期的な利益にころっと騙されるわけだ。

 

その一例がこの豊洲問題である。

ずいぶん飛躍があるようにも見えるかもしれないが、小池百合子支持の一派とルアーに飛びつく魚とではどれほど違うのだろうか。

 

 

 

 

で、我々は結局何をすべきなのかというところが気になるところだろう。

 

 

ただ、その答えを期待した方には申し訳ないが、その答えは書けない。

というより答えなどない。

 

 

というのもこれは、我々現存在がそれぞれ異なる歴史を背負う固有の存在だからである。

 

私は、自分を絶対的な開始として考えることはできない。私は自分で自分を作り出したわけではないからである。確かに、私が私自身であるとき、私は自分を根源として捉えはするが、しかし私は、私の由来において規定されているのである。

 カール・ヤスパース『哲学』

 

一つ、私が提示とすれば、常に現存在ごとに「何をなすべきか」の思考を続けるというその「行為自体」を推奨できる程度である。

 

 

ということで、最後にその思考を助けてくれる著書を載せて終わりとしたい。

 

おもしろきことなき世を面白く 

エマニュエル・カント『実践理性批判』

 

ニッコロ・マキャベリ『君主論』

 

シャルル・ド・モンテスキュー『法の精神』

 

ハンナ・アレント『全体主義の起源』

 

アウグスティヌス『告白』

 

エドマンド・バーク『フランス革命の省察』

 

アレクシ・ド・トックビル『アメリカのデモクラシー』