私は高杉晋作

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私は高杉晋作

頭がおかしいと言う人が「頭がおかしい」

20代の青二才が考えた「生き方」をどうすべきか?という問いに対する一つの報告

生き方がわからない」

「なんのために毎日生きているのかわからない」

20代も終わりにして生き方が何も決まっていない」

 

 

こういった形で、20代に限ったことでもないであろうが、「生き方」がわからないという人は結構いるのではなかろうか。

 

 

私自身がその一人だ。

20代にしてこの苦しみを前にして挫折し、幾度となく考えることをやめようとすら考えてきた。

 

 

ただ、一つの導きを私はこの度獲得した。

もちろんこれが唯一の正解だとは思わないけども。。。

 

 

 

「生き方」について苦しむ一人でも多くの人に何か気づきが与えられるかもしれないと思い筆を走らせることにした。

 

 

あらかじめことわりを入れると「生き方」として「多くの成功者に会え」とか「転職をしろ」といったハウツーを述べるということは一切しない。

それをご了承いただいた上で興味があれば読み進めて頂ければと思う。

 

  1. いつの間に「生き方」がわからない状況になったのか
  2. 今の時代に求められる生き方について
  3. 20代の生き方について

 

1.いつの間に「生き方」がわからない状況になったのか

本屋に行ってみるとわかるが、「生き方」を説く本というのは頗る多い。

 

ジャンルは「ビジネス書」と呼ばれるもの、「自己啓発書」と呼ばれるもの、「宗教的な書物」と呼ばれるものなどがいたるところに散りばめられている。

 

 

 

これは「生き方」に対しての需要の高さを裏付ける一つの現象といっても良いかもしれない。多くの人が生き方がわからなくなっていると言ってもいいのかもしれない。

 

 

ただ、この現象は日本の古代からの伝統かといえばそうではないと私は考えている。 

では、どこで人々は「生き方がわからない」という壁に出会い、「どう生きればいいのか」という難問に蝕まれるようになったのか?ということを少し話そう。

 

 

 

これは、あくまで私の仮説であるが、「近代」(日本で言うところの明治維新)以降、身分制や階級性が崩壊するにしたがってその機運は高まったのではないかと考えている。

*正確には、日本の場合は、西洋ほど急進的ではなく、第二次大戦後の軍国主義体制や小作農制度が崩壊するあたりまでは完全なる「崩壊」ではなかったためヨーロッパほどの「崩壊意識」は高くない。

 

 

 

というのも幸か不幸か道徳、慣習がしっかりと人々に根付いていたいわゆる封建主義体制においては「生き方」が公的に定められており「生き方」で迷うという選択の余地がなかったからだ。

 

 

「武士」に生まれれば、「こうあるべき」というのは決まっていたし、「百姓」に生まれれば、「こうあるべき」は決まっていた。そして、それ事態を不幸とすら思っていない人がほとんどであったように思う。

 

*これを現代人視点で当時の人は不幸だったという解釈を与えるのはお粗末で、一概に過去が良かったとも今の方が良かったともいえない。

 

 

まあ、詳細にはここでは踏み込まない。

とにかくここでお伝えしたいのは、あらゆる社会的な役割規定の崩壊が今我々に「生き方」を悩ませている主な要因であるということが伝われば今の所十分である。

 

 *この辺りについて詳しく知りたい方は、以下参考文献をご覧いただければと思う。

シャルル・ド・モンテスキュー『法の精神』

エドマンド・バーク『フランス革命についての省察』

アレクシ・ド・トックビル『アメリカのデモクラシー』

ハンナ・アレント『全体主義の起源』 

2.今の時代に求められる生き方について

では、「生き方がわからない」背景をお伝えした上で、今の時代に求められる生き方について考えてみたことを僭越ながら書いていきたい。

 

 

手続き的な話をすると、「あるべき生き方」はいきなりはわからない。

その前に応えなくてはならない問いがあると私は考えた。

 

 

それは具体的には、「どう生きるべきか」を規定するためには「自分とは何か」という問いにまず答えることが求められるというものだ。

 

 

 

あらゆる社会的習俗が崩壊しているのだから内側から解釈をするしかないというロジックである。

 

 

こうして、まず「自分とは何か」という問いを突破することを試みた。

しかし即座に挫折した。

 

明確に定義しえないのだ。 

 

 

正直、このままでは、不毛な思索活動が続くと考え、偉人の力を借りようと一人の偉人に助けを請うた。

 

私が力を借りたのはカールヤスパースである。

ヤスパースについてはご自身で調べていただくとして、ここでは、ヤスパースの主張にのみフォーカスして話を進めたい。

 

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ヤスパースの言説によれば、「自分とは何か」を明確に規定することは不可能であり、「生き方」を明確に決めることも不可能であるとのことだ。

 

どうりで答えは見つからないわけだ。私の諦めはどうやら正しかったようだ。

 

定義しえない理由はいろいろあるが、「人間は全面的に自己自身に満足しえないという側面を持つ故に」というコンテクストが最も腹落ちしたので以下に引用したい。

実際において、人間はけっして全般的に、また決定的に自己自身に満足することはできないのであります。自己自身についてくだされた判断において、人間は自己自身だけに頼ることが出来ません。

カール・ヤスパース『哲学入門』

 

これは、当たり前のようで核心をついてはいると思わないだろうか。

「人間とは何か」「自分とは何か」を言語により自らが規定する試みは常に失敗するのでやめておけということなのだ。

 

 

 

 

ただ、ここだけで終われば、ヤスパースは天才と呼ぶほどには値しない。

彼の偉大たる所以はここからである。

 

 

 ヤスパースは20代の若造に以下のように語りかけてくれた。

 

こうして「哲学すること」は生の学びであるとともに死の学びであります。時間における現存在が不確実であるために、生きることは常に実験なのであります。

カール・ヤスパース『哲学入門』

 

ヤスパースの「哲学」の新しさは、「何か」について考える営みという従来の枠組みを抜け出し、「哲学すること自体」を哲学と考えたところにある。

 

 

常に(思考)実験し続けること

 

その「プロセス」自体に意味が有ると彼は述べているのだ。

 

 

同様のことを、オルテガが非常に分かりやすく述べており、ぜひ紹介したい。

ところが、われわれは、そうした申し分なく充溢した自己満足の時代は、内面的に死んだ時代であることに気づくのである。真の生の充実は、満足や達成や到着に有るのではない。セルバンデスは、かの昔に「宿屋よりも道中の方が良い」と言っている。

ホセ・オルテガ『大衆の反逆』 

 

 

これこそが、カール・ヤスパースの考えたあらゆる価値観がお粗末な世の中での「あるべき生き方」であり「どう生きるべきか」に対する「答え」なのだ。

 

 

 

今私が「答え」という「」をつけた意味はお分かり頂けよう。

この「答え」というものは、断じて 単一解を意味しない。

  

 

なぜなら、単一解は求めた瞬間にむしろ答えがわからなくなるというアポリアがそこにはあるからだ。

 

変化に富んだ「自分」は常に思考し続けることが大切だとヤスパースは述べているのだ。

 

 

3.20代の生き方について

最後に、今述べたところを補足して終わりたい。

おそらくこのまま終わればヤスパースの考えを誤解してしまうからだ。

 

 

我々は、何かの問い(今回で言うと「どう生きるべきか」という問い)を立てて、悩む時、常に「観照的生活」に入ろうと試みる。これは、先代の哲学者の多くも同様の道をたどった。

 

 

しかし、それだけでは「生き方」はますますわからなくなると考えたのが、ヤスパース(+アレント)であった。

 

思考はあくまでも準備段階なのだと彼は述べる。

したがって、*(ヤスパースによれば)哲学することそれ自体が人間存在の至高の「実存的」な様態となるのではなく、むしろそれは私自身と世界双方の現実に出会うための準備となる。

ハンナ・アレント『実存哲学とは何か』

*()内は私による補足

 

つまり、「思考する大切さ」をうたいつつ、「自分」の探求作業を独居のみによって追求しなかったところだ。

自己自身についてくだされた判断としての個人の全くの独断というものは、実際においては、かつて現実に存在したことは殆ど無いのであります。常に彼にとって他の人の判断が重要な役割を果たしているのであります。

カール・ヤスパース『哲学入門』

 

 

ヤスパース、アレントは「他者」との関わりや「他者」からの判断により自己は成立すると述べた。「内省」だけを推進力としてきたデカルト以降の哲学者に対する鋭い批判とも言える。

 

実存は、彼らすべてに共通の世界に住まう人間たちが分かち合う生のうちでのみ展開しうる。・・・そのように生き、行為しながら、人間存在は、自己という亡霊を追い求めることもなく、自らが存在そのものを構成したという傲慢な幻想のうちに生きることもない。

ハンナ・アレント『実存哲学とは何か』

 

 

20代の生き方として私がある一定のまとめをするのであればこうであろう。

 

哲学的営み(思考)を常に怠らず、単一の解答を出さないという生活態度を醸成した上で、他者との「ダイアローグ」に繰り出し「自分とは何か」と「自分はどう生きるべきか」を考え続ける

 

 

もちろんこれは、「異業種交流会に行け」という短絡的なものではないことにご留意はいただきたい。。。

 

 

面白き事なき世をおもしろく