私は高杉晋作

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私は高杉晋作

頭がおかしいと言う人が「頭がおかしい」

【コラム】胡散臭い「成功哲学」の正体は「巨大な嘘」に他ならなかった

私が最近目にしたり耳にしたりする言葉の中で眩暈を催す言葉がある。

 

それは「成功哲学」という言葉だ。

本屋に行くと「成功するためには」「一流の・・」「成功者がしている・・・」「・・・という習慣をすれば成功できる」といった成功哲学で溢れている。

 

 

私はこの「成功哲学」という言葉を目にした時に感じる眩暈を言語化しようと思索を巡らせた。

 

結果、ある一定の文章にまとめることができたので、今日はそれをご紹介したい。

 

あらかじめ「成功哲学」の正体を書くと、「巨大な嘘」に支えられたものであり、「成功哲学」は断じて「哲学」ではない。

 

  1. 「成功哲学」という語義矛盾
  2. 「成功」に単一の答えを求める発想の愚かさ
  3. 「哲学」を台無しにする「成功哲学」という「嘘」

 

1.「成功哲学」という語義矛盾

そもそも論から話さなければならないのだが、「成功哲学」という言葉自体が大いなるを抱えていることを伝えなくてはならない。胡散臭いどころの騒ぎではない。

 

 

どういう事かというと、「成功哲学」は「近代イデオロギー」のコンテクストに支えられた「成功」という言葉と「哲学」という言葉を無理やりねじ込んでいるのだ。

 

 

両立しないものを無理やり引っ付けていると言おうか。

「成功哲学」という事がいかほどに語義矛盾であるかは、「哲学」とは何かを考えてみるとわかる。

 

 

「哲学」とは何かについて、カールヤスパースの言葉を少し引用したい。

哲学が科学の信仰者にとってもっとも嫌悪される点は、哲学は普遍妥当的な成果を全然もたないということ、すなわち私たちが知り、それによって所有することができるようなあるものを全然持たないということであります。科学が自己の領域において、いなみがたく確実で、一般的に承認されるいろいろな知識を獲得しているのに反して、哲学は数千年の間の努力にもかかわらず、かつてこのような知識に到達したことがないのです。

カール・ヤスパース『哲学入門』

 

「哲学」というものの本性は、「物事の確定」をしないことに真髄があるとヤスパースは述べている。仮に何らかの納得解が見られた後も常に問い続ける余地があるものを「哲学」と呼ぶわけだ。

 

 

ヤスパース以外にもパートランド・ラッセルが同様のことを述べているため並行して引用したい。

学問の研究者に「あなたの研究している学問が今までにつきとめてきた真理にはどのようなものがあるか」と聞けば、こちらが聞く気を失うまでに答えは続くだろう。しかし同じ質問を哲学者にすれば、もしその人が正直なら「私のしている学問は、科学が達成してきたような積極的な結果を何も成し遂げられなかった」と告白するだろう。このことは次の事実によって部分的に説明される。それはどんな主題についてであれ、知識だと確定した成果が得られるようになると、とたんにそれは「哲学」とは呼ばれなくなり、独立した一個別科学になる。

パートランド・ラッセル『哲学入門』

 

何かを「確定する」という営みは「哲学」ではなく、それをした段階で、「科学」となるとラッセルは述べる。

 

 

 これら知者の考えに「権威主義」と言われようとも私は賛同している。

それ故に「成功哲学」という言葉はそれ自体が語義矛盾であり、であると繰り返し述べる。

 

 

 

多くの「成功哲学」信者は何を勘違いしたのだろうか。

世の中の「成功」には「一通りしかない」という左翼の発想を織り成している。

 

 

その兆候は「成功哲学」という言葉の妥当性の説明にその観念自体を説明の手段として使うところに現れている。

 

 

 

成功哲学に懐疑的なものには次の言葉が投げかけられるだろう。

「君。成功したくないの?」

 

この言葉がどれほど恐ろしいかをなぜ多くの人は気付かないのか。

 

 イデオロギーは常に、前提からの展開によって全てを説明するためには一つの観念があれば充分であり、全てはこの一貫した論理的演繹の過程の中に含まれている以上経験などは何も教えないという仮定に立つ。

ハンナ・アレント『全体主義の起源』

 

『金持ち父さん』『7つの習慣』『思考は実現する』『道は開ける』をはじめとした「西洋成功哲学」という壮大なイデオロギーは我々を単一の生き方へと固める「ペテン」なのだ。

 

2.「成功」に単一の答えを求める発想の愚かさ

少しまとめると、「成功哲学」に心酔する「終わった人間」のおかしている過ちというのは一つだ。

 

わざわざ書かなくてもわかると思うが「成功」を「経済的成功」「アーリーリタイア」「金持ち父さん」というものに盲目的に定義しているところに他ならない

 

 

こういうことを言うと、神田昌典信者から徹底的に私は中傷を受けるわけだ。

 

「あなたは貧乏になりたいの?」「お金一つもいらないのね」と彼ら・彼女らは私に勝ちほこられたことがどれほどあろうか。

 

 

 

彼ら・彼女らは二項対立を愛好するようだが、私は「成功」を「経済的成功」としてはいけないとも「金はいらない」とも言いたいのではない。

 

 

「画一」の生き方をせまる傲慢さを隠蔽しながら「成功哲学」と名乗るデタラメで「哲学」を名乗るなと言いたいだけだ。

 

 

「アーリーリタイア」したければすればいいと思っている。

 

 

*ここでもう一つ私がよく受けるある中傷について予防線を張りたい。

それは、「お前もよく「ーすべきだ」と言っているじゃないか」という中傷である。

 

 

確かに例えば、私は「結婚してマイホームを買って・・」といったライフスタイルを批判する発言をよくする。

 

 

ただ、私の批判を誤解している。

私が批判するのは基本的に「人間をある単一の枠に収めようとする運動」が見受けられる事柄というのだけは一貫している。

 

逆に「人間の複数性を担保する営み」には「いいもの」とみなしている。

(だから古典を読むべきと言っている。)

 

 

3.「哲学」を台無しにする「成功哲学」という「嘘」

 さて、「成功哲学」という幻想(嘘)を突き崩すために私は文章を書いてきた。

いかがだろうか?

 

 

もちろん賛否両論あると思う。私も大学の論文ではないので付け入る隙はあるだろう。

 

 

ただ、「成功哲学」を名乗るあらゆる「ビジネス書」は我々の生き方を制限してしまう。そのまやかしから自らを解放してはどうだろうかという投げかけは多くの人に聞こえて欲しいものだ。

 

  

偉そうなことを言っているが、私はこのことに気づくのに随分と時間がかかった。

「経済的成功」を「成功とは言えない」と言葉ではいいながらも、心が支配されていた時があった。

 

 

ただ、あらゆる「画一性」に向かう「運動」を私は否定し続けたい。

真の生の充実は、満足や達成や到着に有るのではない。セルバンデスは、かの昔に「宿屋よりも道中の方が良い」と言っている。自己の願望、自己の理想を満足させた時代というものは、もはやそれ以上は何も望まないものであり、その願望の泉は枯れ果ててしまっている。要するに、かの素晴らしき頂点というものは、実は終末に他ならないのである。

ホセ・オルテガ『大衆の反逆』 

*セルバンデスは聖書の次に売れたと言われている『ドンキーホーテ』 の著者

 

 

西洋成功哲学というのはどうも「目的」「結果」ばかりに気を取られている。

しかしその道中の「多様な歩み」にこそいいものがあるのではなかろうか?

 

 

あなたの周りにもいないだろうか。「人生の成功」を定義し終え、「確信」に満ちながら終末にむかう人間が、、、

 

おもしろき事なき世を面白く