私は高杉晋作

頭がおかしいと言う人が「頭がおかしい」

【コラム】強姦やレイプ事件への非難からわかる「人間とは何か」ー慶應大学の事件に人々が怒る理由ー

約 7 分

最近最も話題となったニュースというと慶應大学の広告学研究会のメンバーがした強姦(レイプ)事件である。

news.livedoor.com

この事件について以前書いた記事は多少なりとも反響があった。

 今日は、もう一つこの事件について考えていたことを書きたいと思う。

私が考えていた問いというのは、慶應大学広研の事件に限ったことでもないが、「なぜ人々は強姦レイプに対してこれほどに怒りを抱くのか?」というものだ。

  1. 「レイプ」や「強姦」を殺人よりも許せない人々
  2. どうして「レイプ」や「強姦」が全ての人間に受け入れられないか?
  3. ここに人間の普遍的判断軸が見える

以下の章立てで瑣末ではあるが、書いていきたい。

1.「レイプ」や「強姦」を殺人よりも許せない人々

私がモヤっと思っていたこの疑問が言語化されたのが今回の慶應大学の事件だった。

今回も例に漏れず、レイプ強姦をした人物に対して多くの人が刑法上最も重いはずの「殺人」に対してより大きい怒りを持っていたと私は感じた。

何を根拠にと思うと思うので、そう思った理由を述べたい。

それは、殺人という最も刑法上重い罪に対してさえ人々は「仕方なかった」と考えることがある(介護で苦しんでいて親を殺したケースや正当防衛のケースなど)、一方で、性犯罪で「仕方なかった」という話は相も変わらず聞いたことがないからだ。

 あなたも

「この人の殺人に対する罰は軽くしてほしいな」

そう思ったことがあるであろう。

しかし、強姦レイプの場合「仕方ない」という判断を下された例を聞いたことがあるだろうか。

「あのレイプは仕方なかった。」

「あの強姦は仕方なかった。」

 聞いたことがないであろう。

 ここで、いよいよ核心に迫るが

なぜ人間は「客観的な」法律上の罪の重さをひっくり返すのか?

それこそがここの主題なのだが、同時に「人間とは何か」にもつながっていく。

結論から述べると、人間には共通の普遍的価値観があり、それに照らせば、強姦レイプは時に殺人を超越するほどの許し難い行為だからだ。

2.どうして「レイプ」や「強姦」が全ての人間に受け入れられないか?

どうして人間は「レイプ」や「強姦」を許せないのか?

この問いから今、私は人間普遍の価値観をはじきだそうという試みをしている。

ただ、結論は急がないでほしい。

この結論を述べるには、人間が普遍的に「喜び」を感じる側面の説明がまず必要となる。

それゆえにもう少し私の話にお付き合いいただきたい。

これに関しては、まずアレントの言葉を引用したい。

どんな活動においても、行為者がまず最初に意図することは、自分の姿を明らかにすることである。これは止むを得ず活動する場合でも、自分の意志から進んで活動する場合でも同じである。どんな行為者でも、行為している限り、その行為に喜びを感じるのはそのためである。

ハンナ・アレント『人間の条件』

f:id:zyunn14641:20161015173041j:plain

アレントによると「自分の姿を明らかにする」ことに人間は例外なく喜びを感じるのだという。

「言われてみれば。。。」という感じだろう。

ちなみにその理由はというと以下のようにアレントは続ける。

というのも、存在するものは、すべて、あるがままの自分を望むからである。

ハンナ・アレント『人間の条件』

身近な例で言うと、誰にも頼まれたわけでもないのにfacebookやTwitterに投稿する現象や何気なく友人に連絡を取るという行為は「自分の正体」を明らかにするという喜びの表出ではなかろうか。

言葉と行為によって私たちは自分自身を人間世界の中に挿入する。そしてこの挿入は、第二の誕生に似ており、そこで私たちは自分のオリジナルな肉体的外形の赤裸々な事実を確証し、それを自分に引き受ける

ハンナ・アレント『人間の条件』

この「自分自身」をあらわすという営みは物理的な誕生に続く「第二の誕生」とアレントが定義するほどに人間において重要だ。

この誕生がなければ人間は未開人である。

ここにこそ今回のレイプ強姦にまつわるヒントが隠されている。

 つまり、我々が、強姦レイプを許せない理由は、「相手を物理的な人間(肉体)」(生命の第一段階)としてしか認めない行為だと我々が判断するからであり、また、本当の意味で相手を(第二の誕生を経た)「人間」と認めていない非人間的な行為とみなすからである

3.ここに人間の普遍的判断軸が見える

この強姦レイプというものへの怒りを考察してくと、人間というものの正体が見えてきた。

一言で言えば、社会に生きる人間にとっては、「食欲」や「睡眠欲」と同レベルに他者による自らへの「愛」を生存要件としているということだ。

これを満たしてくれる時に人は「喜び」を感じるし、これを阻害する行為に「怒り」「悲しみ」を感じるのだ。

そしてこれは他人に対して判断するときもそうだ。

普遍的な「愛」を見出すときには、 「喜び」「同情」を寄せ、逆の場合は、「怒り」「悲しみ」を感じる。

この「愛」の概念が人々にとってどれほど重要かは、同じ性行為であっても「愛」を感じるものに対して女性は「悲しみ」や「怒り」ではなくむしろ「喜び」を感じるというのがいい例かもしれない。

4.最後に

この強姦レイプへの考察を通して私が言いたかったことが3つある。

一つは、人間の「行動」の判断基準は「外部にある出来合いのもの」よりも自らの内なる「良心」の方に求める方が往々にして正しいということだ。

人間というものが「外部のある出来合いのもの」でしか判断できないロボットのようなものなのであれば、刑法では殺人より軽い強姦レイプに対して「例外なく怒りを覚える」現象に説明がつかない。

カントにとってはすべての人間は行動し始めたときから一個の立法者なのであった。人間はその<実践理性>を用いることによって、法の原則となりうる原則、法の原則となるべき原則を見出すのであった。

ハンナ・アレント『イェルサレムのアインヒマン』

二つ目が、人間は外的な判断基準なしでは何も判断できないというのは愚かな偏見であるということだ。

あなたが強姦レイプの報道を聞いた時「これはダメだ」と直感的に判断しなかったか?

「〜という犯罪に違反しているので、、」が直感を超えていたらその人はもう人間ではないということを私は言っている。

標準に頼らないと人間は判断できないという偏見の裏にあるのは、近代世界で失調したのは世界ではなく、人間だという考え方である。今や不安の対象はもっぱら人間なのである。

ハンナ・アレント『政治の約束』

近代以降、人間は世界の発展を疑わない進歩史観に毒されているが、それゆえに「失調しているのはつねに人間の方」 と考えるようになってしまった。

これは現代の病だ。

最後は、「思考」を続けることの大切さだ

我々を縛る世の中のあらゆることは今極めて疑わしくなっている。

 自分自身すらも疑いの対象であることは今しがた述べた。

そんな中、「思考」し続ける人間だけが、自らの良心にてらして前へ突き進むことができるとカントは述べる。

善と悪を区別できる。・・・共通の理性に何も新しいものを教えないとしても、私たちはソクラテスと同じようにその原則に注目するだけで良い。だから正直で善良であるためには、・・・科学も哲学も必要としないのである。・・・これは実際に誰もがなすべきものについての知であり、ごく平凡な人にも関わりのある知である。

エマニュエル・カント『純粋理性批判』

この性犯罪というトピックにおいては人間が思考を止めていないからこそまともな判断が下せた。一方で、思考停止した人間たちが愚かな行為をしでかした。

しかし、他の場面ではどうだろうか?

人のことを笑っていられるだろうか?

そう考えるきっかけになればと思う。

慶應大学の広告学研究会の事件からこんなことを考えていた私であった。

おもしろきことなき世を面白く

 

Leave A Reply

*
*
* (公開されません)