私は高杉晋作

頭がおかしいと言う人が「頭がおかしい」

人生が「つまらない」「辛い」「楽しくない」という20代の社会人に伝えたいこと

約 6 分

あなたはこれを開いてくれたということはもしかして以下の様なことを最近考えているのではないだろうか?

 

 

人生ってこんなつまらないの・・・」

人生が普通に辛い

人生楽しくないんだけど、、、」

 

 

こういう考えは、おそらく大学までを「エリート」と呼ばれる階段を駆け上がり、大手企業に内定した「勝ち組」と呼ばれる人ほどむしろその傾向は顕著であるように感じる。

 

 

今日は、私自身日頃考えていることを元に、何かヒントになるようなことが書ければと思う。

  1. 人生が「つまらない」「辛い」「楽しくない」核心はこれではないか?
  2. 人生に疲れた人に楽しむことができる一つのヒント
  3. 明日からできる人生を楽しむ方法

 

 

1.人生が「つまらない」「辛い」「楽しくない」核心はこれではないか?

早速だが、結論に入りたい。

 

あなたにとって人生が、「つまらない」と感じたり、「辛い」と感じたり、「楽しくない」と感じたりする正体はズバリ、「社会(経済)の発展」という正義のもと終わりなき過程(生産と消費のサイクル)に引きづりまわされている感覚がもたらす虚無感ではなかろうか?

 

 

実はこれを予言していたのが、ハンナアレントである。

彼女は人間の行動を「制作」と「行為」という言葉で比較することで現代とそれ以前の比較を行った。(*『人間の条件』では労働と仕事と述べられている。)

 

 

まず「制作」とは何かを見ていきたい。

 

制作と行為の違いは、制作が明確な始まりと予言可能な終わりを持つ点にある。制作はその最終的生産物をもって終わり、この最終生産物は、政策の活動より長続きするだけでなく、その時から或る種それ自身の「生命」を持ち始める。

ハンナアレント『過去と未来の間』

 

彼女によると「制作」というものは、明確に始まりと終わりを持ち、その人間が行った「制作活動」の結果として何かを生み出す力があるとのことである。

 

 

明確な記述はないもののおそらく、この「何かを生み出した」ということが人々に大いに充実感や喜びをもたらすと彼女は言いたいと思われる。

 

 

一方で、「行為」について彼女は以下のように述べている。

行為はそれが終わった後に最終生産物を残すことは決してないからである。仮に行為が何らかの帰結をもたらすとしても、それは原理的には偶然の出来事からなる新たな無限の連鎖のうちにのみあり、行為者がそのあり得べき結末をあらかじめ認識したり、コントロールすることは全く不可能である。 

ハンナアレント『過去と未来の間』

 

「行為」とは、「何も残さない」ということが最大の性質だと彼女は述べる。

 

 

いうまでもなく、あなたの人生の「つまらない」「辛い」「楽しくない」という感情を牽引しているのはこの「行為」をしているからだと私は述べたい。

 

 

 

すごくシンプルに言えば「自分の人生なのに自分のために何も残さないことをしている」という事実があなたに虚無感をもたらしている。

 

 

 

今「行為」は悪いものであるという論調で書いてきたが、「行為」と「制作」の優劣があると言いたいわけではない。

 

 

なぜかというと、双方ともに一長一短だからだ。

 

 

我々が、現代社会において「行為」(過程への没入)に傾倒するのはそれに「合理性」があるからであり、それを否定すればもちろん我々が失うものもたくさんある。

  

 

2.疲れた人が人生を楽しむことができる一つのヒント

私が、人生に疲れた人たちに一つ言いたいことがあって、それは「休日だけでいいから市場原理」から離れる時間を作るべきというものだ。

 

 

だから、「会社をやめろ」みたいなホリエモン的な方向ではなく、今日からでもできることに寄った文章をここからは書いていく。

 

 

 

私がここでいっている「市場原理」とは「消費」という言葉がキーワードになる。

 

 

 

今や休日さえも、消費社会という経済原理で人々を消耗させようとしている。

 

 

だから、そういった世の中においては休日でさえも、あなたは「休む」ことなく自分自身を消耗させられている可能性が高い。

 

大衆社会が抱える比較的新しい困難はおそらくはるかに深刻であるが、それは大衆自身のせいではなく、この社会が、本質的に消費者の社会、つまり閑暇が自己感性やより高い社会的地位の獲得のためにはもはや使われず、ますます多くの消費、ますます多くの娯楽のために使われるような社会であることによる。

ハンナアレント『過去と未来の間』

 

 

なぜ「消費」に私が目をつけているかというと、触れて間もなく消滅する「ニヒリスティック」な側面を持ってしまっているからだ。

 

 

 

 

ただ、ここまで言ってきて何だが、現代社会において「消費」の具体例を挙げるのは難しい。

 

 

少し昔であれば「消費」といえば、「物」というリアリティのあるものに対してのみ使われていた。アレント自体の筆致も前提にそれがあると思われる。

 

当時の人々は、物の製造の持つ新しい可能性に魅了され、手段と目的の観点から、つまり有用な事物を生産する経験にその妥当性の根拠をもち、そこで正当化されるカテゴリーを用いて、全ての事柄を施行した。

ハンナアレント『過去と未来の間』

 

 

 

しかし現代では「サービス」や「無形」のものがいたるところで溢れている。

 ただ、もちろんそれらも人々を消耗させようとする。

 

 

だから、個人的には、ハンナアレントの「消費」の定義にセネカが述べたような「時間の浪費」も加える方が適切であるように思える。

 

 

 

まあ「消費」の定義が持つ本質自体は変わらない。

とにかく「後に何も残さない」ニヒリスティックなものすべてである。

 

 功利主義のアポリアは、手段と目的というカテゴリーの枠組みそのものにある。それは、達成された目的一切をすぐさま新しい目的の手段へと転換してしまい、それによっていわば、意味が生まれそうになるや否やその意味を破壊してしまうのである。・・・「役に立つことは一体何の役に立つのか。」これはかつてレッシングが簡潔に発した反問であった。

ハンナアレント『過去と未来の間』

 

 一切の意味はなく、「目的自体が手段であり、手段自体が目的である」というアポリア(解消されえない矛盾)の中をさまよっているのだ。

 

 

3.明日からできる人生を楽しむ方法

経済原理が打ち出す「(金銭的)価値」に騙されないでほしい。

その価値は、いとも簡単に消えるニヒリスティックなものだ。

 

 

 

人生「つまらない」「辛い」「楽しくない」20代の社会人の人に私が言いたいのはこれだけである。

 

 

何かとんでもないことを言うことを期待していた人にとっては期待はずれかもしれない。

 

ただ、私が見る限り休日の過ごし方のせいで、平日も楽しめず、最悪の循環を走っている人が多い気がするのだ。

 

 

とにかくまずは、休日に「何か残す」という経験を続けるしかないだろう。

 

 

  • ポケモンGOをして3年後に何か残っているだろうか?
  • 会社の飲み会に参加して、3年後何か残っているだろうか?
  • 今LINEを暇があればしていると思うが、3年後何か残っているだろうか?

 

 

私はよく上記のようなものを叩くが、何か残っている感覚があるなら私は否定すまい。

 

 

おもしろきことなき世を面白く

 

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