私は高杉晋作

頭がおかしいと言う人が「頭がおかしい」

友達の定義とは何なのか考えてみようか

約 6 分

友達がクズだ」

友達がうざい」

友達が自己中」

友達がムカつく」

友達が図々しい」

 

 

あなたは最近こう思ってしまう友達がいるのではないか?

 

 

 

ちょっと待ってほしい。おかしいのだ。

友達とはもっと甘美なものではなかったか?

 

 

 

 

なぜこれほどおかしいことが起こっているか言おうか。

 

 

それは、現代が友達の数を競うおかしな時代だからだ。

 

 

 

会えばすぐに「Facebookで友達になろう」といってくる人間の方が多い時代だが、正直これほど軽薄なこともない。

 

「正気かどうかは統計上の問題ではない」このことばには深遠な叡智が含まれているような気がした。

ジョーオーウェル『1984』
 

 

 

こういう時代にあって友達定義を見直すことは大切であると私は考える。

ということで、今日は、友達定義を問い直してみた。

  1. 友達とは何か?
  2. これを友達とは言わない。
  3. あなたの言う「友達」は不動の友達なのか?

 

1.友達とは何か?

早速だが、友達定義に迫りたい。

 

キケロは以下のように述べる。

友情というものは人間に関わるものの中でも、万人が口を揃えてその有用性を認める唯一のものなのだから。

キケロー『友情について』 

 

 

確かに私も「友達はいらない」と連呼はしているもののそれは一緒に激安居酒屋に行くような「友達」をいらないと言っているだけで、友達自体は私も有用だと考えている。

 

 

 

 

では、なぜ我々は友達及び友情というものに対してこれほどの愛着を持つのか?

 

キケロによればそれは相手の中に何かしら「自己」を見出すからである。

人は皆自分を愛するが、それは自分から愛の報酬を取り立てるためではなく、自分がそれ自体として大切だからである。これと同じことが友情にも移されるのでなければ、真の友人は決して見出されぬであろう。真の友人とは、第二の自己のようなものであるのだから。

キケロ『友情について』

 

つまり、我々が友達と呼ぶ人間に求めるのは「自分自身の移し身のような存在」なのだ。

 

 

これは当たり前のようでかなり的確な指摘である。

 

  

一方で、これは非常に示唆のあるメッセージを含んでいる。

 

それは何か?

 

今目の前にいる「友達」のレベルこそがあなたそのものということだ。

 

もちろん、友達と完全一致とは言えないかもしれないが、あえて踏み込んで言いたい。

 

友達とは「あなたそのもの」なのだ。

明快な定義を期待していた左翼の諸君には申し訳ないが、これが私の答えだ。

 

 

 

それゆえに誰もが憧れる素晴らしい友情を得るには、いくら探しても無駄である。

自らの才能を磨く以外に方法がないのだ

 

概して友情というものは、才能や年齢がしっかりと固まってから判断すべきものだ。若い頃に狩猟やボール遊びに熱中していたとしても、その頃熱烈な遊び仲間として好きだった人を親友にしなければならぬいわれはない。・・・・さもなければ、友情は確固たるものとして存続しえない。なぜなら、生き方が違えば、結果として熱中するものも違ってくる、それの相違が友情を分解することになるのである。

 キケロ『友情について』

 

 

まあ小難しいことを言ってるが、40を超えて裏で「あいつ大関じゃね?」と呼ばれるおっさんの友人は同じような体型だったり「全身ユニクロ人間」だったりするというだけの話なのである。

 

 

2.これを友達とは言わない

あえて反感を恐れずここからは切り込んでいきたいと思うが、この機会に私が理想の友達の定義でないと思うものについてここでは語りたい。

 

 

その定義とは「共感してくれる人」である。

 

人がノーと言えば、俺もノー。イエスといえばイエスだ。つまり一から十まで賛成するのが俺様の鉄則さ。

テレンティウス『宦官』 

 

 

『宦官』に出てくるこのセリフを語るグナトーという人物に対して、キケロこの手の友人をそばに置いておくとは「軽薄の骨頂だ」と断罪する。

 

 

「このパンケーキおいしいね」

ポケモンGOのさ。。。。」

 

 

こういう流行を追いかけている人間はグナトーと同じである。

基本的に「友達」にたいして「共感」をし合うことを求めている。

 

 

 

ただ、その関係性は望ましいものではない。

 

なぜなら、他に「パンケーキを食べる人間」「ポケモンGOをやる人間」がいれば、容易に交換可能だからだ。

 

カトーの例の言葉は、いつもながら実に穿っている。「ある人にとっては、優しそうな友人より辛辣な敵の方が役に立つ。敵はしばしば真実を語るが、友人は決して語らぬから」と。

 キケロ『友情について』

 

 

同様のことをプルタルコスも『いかに敵から利益を得るか』で記している。

アンティステネスが、もし我が身を保たんとするならば真の友か狂暴な敵を持たねばならぬ、と言ったのは正しい。友人は忠告により、敵は悪口によって我々が過ちを犯しそうになるのをそらしてくれるからだ。しかし今日では、友情は、何かを腹蔵なく言おうとすると声をつまらせ、そのくせ追従を述べるときには多弁になり、忠告など一言も発しなくなってしまったから、真実は敵からしか聞けない。

 プルタルコス『いかに敵から利益を得るか』

 

要するに、同調する人間は友達としてむしろ害なのである。

 そういう時代にあっては、敵の方が多いにあなたを高めてくれる。

 

 

 

実は、私も世の中一般的な「友達」というものにあまり期待していない。

 それよりもブログを書いた時に中傷する人たちからの意見の方が結構自分の成長に繋がっている。

 

まあ私の話は置いておこう。

 

 

 

 口を酸っぱくしていうが、「共感してくれる人」が「友達」だと思っていたらそれは終わりの始まりであるということだ。

 

今日の特徴は、凡俗な人間が、おのれが凡俗であることを知りながら、凡俗であることの権利を敢然と主張し、いたるところでそれを貫徹しようとするところにあるのである。・・・大衆はいまや、いっさいの非凡なるもの、傑出せるもの、個性的なるもの、特殊な才能を持った選ばれたものを席巻しつつ有る。

オルテガ『大衆の反逆』

 

3.あなたの言う「友達」は不動の友達か?

全体のまとめに入ろう。

 

 

あなたの「仲がいい」と思う友達を思い起こしてほしい。

 

 

それがあなた自身だ。

 

 

では、その友人は偉大だろうか? 

 

 

以下のような人間ではなかろうか?

 

 

 

このような人間と付き合っていても死ぬまで時間を無駄にするか、いとも簡単に消滅する人間関係なので無駄なのだ。

 

その「友達」はいらないのだ。

 

 

あなたが不動の友達として求める人間はもっと上にいるのではないか?

 

しかし、友情において最も重要なのは、目下の者と対等になることだ。

・・・・スキーピオー・・・は自分の知己が一人残らず、自力で栄進することを望んだのだ。

キケロ『友情について』
 

 

 

そのような偉大なる友達を求めるならばまずは自分が登るしかない。

 

 

おもしろき事なき世を面白く

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