私は高杉晋作

頭がおかしいと言う人が「頭がおかしい」

【恐怖】20代でやるべきことをしないからあらゆることで後悔する

約 6 分

「20代は遊んどかないと後悔するぞ」

「20代でやるべきことは、合コンと飲み会だ!」

「20代で結婚して、家族を持って、一軒家を30年ローンで買うのが一人前だ!」

上記のような過ごし方を「一人前の姿」だとじじい達はよく言う。

だが、単刀直入に言えばこれは社会のガンだ。

悠長なことを言っている場合ではない。非常に危険な感染力があるのだ。

恐るべきは、転移する力がべらぼうに強く、次々に若者を「終わった人間」にしてしまう。

あなたも放っておけば、「モンテローザの居酒屋で過ごすこと」が人生の楽しみになる病気や「服は全身ユニクロでいいじゃないか!」と激怒する病気に感染する。

本当にまずい。

実際、世の中の20代の99%がこの過ごし方を「あっ!これが一人前の人間なんだな」と考え真似をしていると思われる。

20代にして「ユニクロ人間」「30年ローン人間」「読売巨人素人評論家」へと仲間入りしていく人間を私は数多く見てきた。

社会全体で「愚か者」を作り出すサイクルがここまで整ってしまうと、まともな人間ほど狂人ということになってしまうことがまたこの病の恐ろしさでもある。

ジョーオーウェルは『1984』の中で以下のように述べる。

 彼はそれまで何度も考えたように、はたして自分は狂人ではないのかと考えた。ひょっとすると狂人はたった一人の少数派そのものかもしれない。・・・・だが、狂人であると考えてもそれほど動揺しなかった。怖ろしいのは同時に自分が間違ってもいるのではないかということだった。

『1984』

私は全世界を敵に回しても、オヤジが提唱する生き方を「くだらない」と断罪する。

あなたも社会のデタラメに抗うべきだ。

その際、相手が多数派であるがゆえに、ウィンストンが恐れたような「自分が間違っているのではないか?」という考えを抱いてはいけない。

この恐るべき病気になることを防ぐ方法は1つだけある。

 それを理解するためには、まずどういう生き方が求められるのかを知る必要がある。

それについてはすでに賢者が述べているので、今日はそれを書きたい。

1.「食べていけること」「大企業に入ったこと」はなんら誇るべきことではない

福澤諭吉は『学問のすゝめ』の中で以下のように述べる。

もちろん、独立して生活するのは、人間にとって重要なことであり、「自分の汗で飯を食え」とは、古人の教えではあるけれども、私の考えでは、この教えを達成したからといって、人間たる者の務めを果たしたとは言えない。この教えはただ、動物に負けていない、というだけのことだ。

蟻・・・は、・・・・穴を掘って住処を作り、冬の日に備えて食料を蓄えるではないか。・・・世の中には、この蟻レベルで満足している人もいる。

『学問のすゝめ』

福澤諭吉の考えに基づけば、食べていけることは確かに重要であるが、それはなんら誇るものではないとのことである。

食べていけることは、その他動物と同等程度になったということしか意味しない。

ただ、現実を見回してみると、「自分で食べていける俺は偉大な人物だ」と言わんばかりの人間で溢れている。

そういった人間の特徴は一つである。

彼らは新たに何も学ぼうとしない。

性欲や食欲を満たすだけの下等生物への道を歩んでいる。

「誰にも迷惑かけてないんだからいいじゃないか!」

とあなたは言うかもしれない。

申し訳ないがその考え方が二流なのだと福澤は述べる。

 衣食を求め家を建てる時には、額に汗したこともあっただろうし、悩んだこともあっただろう。古人の教えに対しては恥じることはない。とはいえ、その達成したことを見れば、万物の霊長たる人間としての目的を達したものとはいえない

以上のように、一身の衣食住を得てこれに満足するべきだ、とするならば、人間の生涯はただ生まれて死ぬだけだ。死ぬ時には生まれてくるときと何も変わらない。

『学問のすゝめ』

2.人として生まれたからには国の歴史に何かを刻もうという志を持った生き方が必須

では、どうすることで偉大な人物であると言えるのか。

それについて福澤は以下のように述べる。

 要するに、われわれの仕事というのは、今日この世の中にいて、われわれの生きた証を残して、これを長く後世の子孫に伝えることにある。これは重大な任務である。

 どうして、数冊の教科書を読み、商人となり職人となり、小役人となり、年に数百程度の金を得てわずかに妻子を養って満足していられようか。これでは、ただ他人を害さないというだけだ。

『学問のすゝめ』

「他人に害をなさないこと」

このイデオロギーは、日本では初等教育から刷り込まれる。

確かにこれは間違っていない。

ただ、何度も言うようにそれは最低条件でしかないのだ。

偉大な生き方とは到底言えない。

その成否はともかく、国の歴史に何か刻むことを目指すことこそが、偉大であるための必須条件だ。

3.国の歴史に名を刻むために学問をする

ここでようやく福澤の有名な冒頭の言葉の意味がわかってくるはずだ。

「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」と言われている。

しかし、この人間の世界を見渡してみると、賢い人も愚かな人もいる。貧しい人も、金持ちもいる。・・・こうした雲泥の差と呼ぶべき違いは、どうしてできるのだろうか。・・・・賢い人と愚かな人との違いは、学ぶか学ばないかによってできるものなのだ。

『学問のすゝめ』

人間として何も成すことなく終わるかどうかは学問をするかどうかで決まると言っているのである。

では、学問をすると何がいいのか?

それは、「世の中に溢れるあらゆるものに対して、疑いを持つことができる点にある」と福澤は言う。

信じることには偽りが多く、疑うことには真理が多い。

試しに見てみよ。世間の愚か者たちは、人の言葉を信じ、本に書いてあることを信じ、うわさ話を信じ、うわさ話を信じ、神仏を信じ、占いを信じる。・・・・このような社会に真理が多いか少ないか、と言われれば、多い、とはとてもいえない。

信じる、疑うということについては、取捨選択のための判断力が必要なのだ。学問というのは、この判断力を確立するためにあるのではないだろうか。

『学問のすゝめ』

冒頭に記載した

「20代は遊んどかないと後悔するぞ」

「20代でやるべきことは、合コンと飲み会だ!」

「20代で結婚して、家族を持って、一軒家を30年ローンで買うのが一人前だ!」

といったものを疑えないのは、あなたがユーチューブばかり見てるからではないか?

今あなたがすべきことは、まっとうな価値観を学問を通して修得し、大衆社会が作り出した醜悪な価値観への隷属を断固として拒否することである。

面白きことなき世をおもしろく

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  1. 貴方の記事を読ませて頂き、若輩ながらコメントさせていただきます。
    確かに貴方の言う通り、自分自身の生活の安定を願うだけでそこで満足し、市井の暮らしに疑問を持たない人が多いかもしれません。 しかし、貴方の言う通り本当にそのような人ばかりでしょうか。
    いまや先進国と言われるようになった日本ですが、年を経るごとに貧困層の人達が増えている兆しがあります。そして私の見解から申しますと、その貧困層が増えているのは、本人自身の問題よりも、その貧困層の環境が悪く、さらに泥沼のように抜け出せなくなる社会が黙認されている社会そのものだと思うのです。
    また、貴方が引用されている福沢諭吉先生の社説を引用されていますが、はたして先生は、本当にどうしようもないくらいの貧困に陥った経験がおありだと思うでしょうか。時代が明治と言う背景もあり、その当時は家柄やある程度の財産、そして並みの人以上の努力と運が無ければ、歴史に名を残すのは困難だったと私は感じます。故に先生の言葉をそのまま贔屓に引用するのは、ただの啓蒙だと私は感じるのです。
    よって私が主張したいのは、社会に対する疑問符を持つことは同意しますが、貴方が引用に用いた歴史上の人物の言葉を借りるのは、貴方の意見では無くなっていることに私は問題を感じるのです。貴方が貧富混用の市井をみて、自分自身の意見を持つことが、より重要なのではないでしょうか。
    以上、矮小な私がこの記事を読んだ、私の感想です。

    • この度は読んでいただきまして誠にありがとうございます。
      一つ弁解させていただくと、この当時と私の考えは若干の相違があります。
      それならば修正すればいいのですが、自分自身を振り返る意味であえて修正せず残しています。

      それを前提として現在の私から貴殿へ返信させていただきます。

      ”確かに貴方の言う通り、自分自身の生活の安定を願うだけでそこで満足し、市井の暮らしに疑問を持たない人が多いかもしれません。 しかし、貴方の言う通り本当にそのような人ばかりでしょうか。”

      →これは当時からですが、私は「このような人しかいない」とは申し上げていません。むしろ逆です。偉大な人物はたくさんいます。
      そしてそうなる可能性を秘めた人もたくさん。
       ただ一方で、才能を持ちながら市井の生活に満足している人もいます。
      その方に対してそれだけで人生を終えるのは惜しいという考えは今も変わりません。
      啓蒙と言われようともここには未だにこだわりがあります。優れた才能を持て余すのは後世への罪であると。
      (これは私に才能があるということを自画自賛する趣旨はありませんので誤解なきようお願いいたします)

      ”いまや先進国と言われるようになった日本ですが、年を経るごとに貧困層の人達が増えている兆しがあります。そして私の見解から申しますと、その貧困層が増えているのは、本人自身の問題よりも、その貧困層の環境が悪く、さらに泥沼のように抜け出せなくなる社会が黙認されている社会そのものだと思うのです。
      また、貴方が引用されている福沢諭吉先生の社説を引用されていますが、はたして先生は、本当にどうしようもないくらいの貧困に陥った経験がおありだと思うでしょうか。時代が明治と言う背景もあり、その当時は家柄やある程度の財産、そして並みの人以上の努力と運が無ければ、歴史に名を残すのは困難だったと私は感じます。故に先生の言葉をそのまま贔屓に引用するのは、ただの啓蒙だと私は感じるのです。”

      →こちらについてですが、私の視点は貴殿と一部異なります。同意する部分は、福澤の言葉は当時のように身分階級が色濃い社会では確かに的外れだったかもしれないというところです。一方で、相違する部分としては、現代社会においてはインターネットをはじめとして民衆に権力が解放されています。かくいう私が「何もなし」からこうして貴殿を含めた多くの方に文章を読んでいただいています。これは明治時代であればありえなかったことであり、福澤の言葉は明治に生きる人に比べると現代人に対しては極めて実用的だという立場を私はとっています。こういった「機会の平等」が以前にも増して開かれているにもかかわらず、それに気づかずに無為に過ごしている人がいれば、私は前述の通り、その才能を活かすよう働きかけます。

      ”よって私が主張したいのは、社会に対する疑問符を持つことは同意しますが、貴方が引用に用いた歴史上の人物の言葉を借りるのは、貴方の意見では無くなっていることに私は問題を感じるのです。貴方が貧富混用の市井をみて、自分自身の意見を持つことが、より重要なのではないでしょうか。”
      →最後ですが、ここに関しては鋭い指摘だと思いますが、私はこの立場に賛成すべきかは未だに道半ばです。というのも現時点で私は「自分の意見」や「自分の言葉」というのが果たして必要なのか?そもそもそんなものは存在するのか?という疑問から逃れられないからです。なぜなら、あらゆる言論や活動はその伝統に紐付いており、貴殿も含め真の意味での「独自」の意見があるというためにどれほど多くの労力を必要とするかを考えるとめまいがするからです。少なくとも私は、あることに対して正しいもしくは正しくないと考える際、必ず何らかの過去の記憶や記録に無意識にたどり着いています。

      貴殿の趣旨を曲解する形での返信となりました場合、申し訳ございませんが、以上となります。

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