私は高杉晋作

頭がおかしいと言う人が「頭がおかしい」

20代で知っておくべき日本の生きづらさのこと

約 6 分

 

会社、学校、家族、バイト、、、、 あらゆる場所が生きづらい。

 

 

 

 

 

 

 

 

日本とはなぜここまで生きづらい社会なのか?

 

 

 

これはいうまでもでなく、非合理な「こうあるべき」を下支えする「社会通念」や「道徳」がおかしいからに他ならない。

 

 

 

 

道徳や慣習それ自体を否定しているわけではない。

 

 

ただ、その中にゴミが混じっているのだ。

 

 

 

今日は以下の3つの流れで考えてみた。

 

1.高貴な道徳と奴隷道徳の違い

2.見分けられない危険性

3.生きづらさから逃走し、高貴に生きるための方法

 

1.高貴な道徳と奴隷道徳の違い

ニーチェは、『善悪の彼岸』の中で以下のように述べる。

 

かつて地上を支配し、いまなお支配しているさまざまな微細な道徳や粗雑な道徳を遍歴してみると、つねに一定の特徴が互いに働きあい、結びついていることが分かる。

 

やがてそこに二つの基本的な類型が顕になり、一つの根本的な違いが明確なものとなってきた。

 

すなわち主人の道徳と奴隷の道徳というものが存在するのだ。

 

善悪の彼岸

 

 

どうやら、一口に「道徳」といっても高貴なものと、奴隷を奴隷のままにしておくための道徳があるようである。

 

 

 

 

 

この支配側の道徳と奴隷道徳の違いについて少しニーチェの言葉を引用したい。

 

・・こうした考えを持つ高貴で勇敢な者たちは、同情とか、他者のための行動とか、利害関係のないこととかに道徳的な特徴をみいだす道徳とは、遠くはなれたところにある。

高貴な種類の人間たちは、自分こそが価値を決定する人間だと感じている。

こうした人々は他人から是認されることを必要としない。・・・価値を作り出す人々なのである。高貴な人々も不幸な人間を助けることはある。しかし、同情から助けることはない・・のであり、力の横溢から生まれる欲動のもとで助けるのである

之に対して・・・奴隷の道徳は全く別のものである。・・・力強いものたちが敬うすべての「善きもの」には、敏感な不信の念を示すに違いない。

凡庸な人間だけが、生き延び、繁殖し続ける見込みがあるのである。—これらの人々こそが未来の人間であり、唯一の生存者となるのである。今やまだ意味を持つ道徳、耳をもっている人々のための唯一の道徳は、「彼らのごとくあれ、凡庸にあれ!」というものである。

善悪の彼岸

 

 

少し長くなったので簡単にまとめる。

高貴な道徳とは、自らが「正しい」と思うことや、自らが「全能感」を感じることができるものである必要がある。

 

 

一方で、奴隷道徳というのは、今述べた高貴な道徳を否定し、「凡庸であること」を前提条件とするのだ。

 

 

 

個別的な事例を上げたほうがわかりやすいかと思うので、次のチャプターでわかりやすいと思われる例を載せた。

 

 

2.見分けられない危険性

 

こういった道徳の欺瞞を見抜けることで、あなたは奴隷でなくなる。

そして、より高貴に生きることができる。

 

 

 

ただ、見分けることは簡単ではない。

冒頭にも述べたが、この高貴な道徳と奴隷道徳が「道徳」という一つの言葉で表されており、言葉尻で見分けがつかないからだ。

 

 

一つ例を挙げたい。 「謙虚」や「礼儀」という言葉がある。

これは、孔子を初め多くの人が重要視し、その存在自体を否定するものはおおよそいまい。

 

 

 

しかしながら、奴隷根性をうえつけるために悪用されることが多々あるのだ。

 

 

「高貴な」コンテクストで礼儀や謙虚という言葉を使うときは、古代の賢人に対して「ああ。これはかなわないな。」と悟ったり、親を尊敬することなどがあるだろう。

 

他にもニーチェの意図を組めば、「お金に困っている女の子に援助交際してあげる」なども強者の礼儀と言える。(もちろん共感は得られないが、救っているし、男も喜ぶ)

 

 

 

 

一方、奴隷向けに使用する場合はユースケースが星の数ほどある。

それだけで新書がかけるレベルなので、1つだけ書きたい。

 

 

日本企業では、「さすが先輩」というYesマンを「謙虚で良い奴」とし「使える人間」みなす。

 

 

そして、飲み会の幹事を率先してやり、飲みの席で「僕もゴルフやってみたいです」とウソを付く人間が「礼儀正しい人間」とみなされる事が多い。

 

 

 

 

これは明らかに「礼儀」や「謙虚」という道徳にまつわる言葉を「奴隷教育のため」「凡庸化するため」に使っているのだが、「道徳」と呼称される。

 

 

 

 

もう結論は言うまでもないが、 奴隷道徳こそが日本社会の生きづらさの正体である。

 

 

 

ただ、これを見分けることが出来ずに、「週末はゴルフで一杯」「平日の夜は笑笑で一杯」という奴隷道徳に洗脳されてしまう社会のサイクルが持続していることに嘆きを止めることができない。

 

 

3.生きづらさから逃走し、高貴に生きる方法

 

高貴に生きる人間とは、道徳を自らたて、自らに課すに留める人間なのである。

 

 

決して誰にも縛られないし、分かり合おうとしてはいけない。

*縛られるのは、歴史や伝統くらいだとニーチェは言う。ちなみにニーチェは道徳否定などをするためよく勘違いされるが、保守派・守旧派の急先鋒である。

 

 

 

ニーチェは以下のように言う。

 

人が高貴であることを示す<しるし>のようなものがある。みずからの義務を、すべての人への義務にまで引き下げないこと。 みずからの責任を譲り渡すことを望まず、分かち合うことを望まないこと、・・・・・みずからの義務の一つと考えること。

善悪の彼岸

 

「飲み会に来ない奴はダメ人間だ!」

「俺のために合コンセッティングしろ!」

「土日もゴルフ接待するのは当たり前だ!」

 

こういう他者に意味不明な「道徳」を押し付けてくる人間が高貴であるはずがない。

 

 

あなたは断固として抵抗しなくてはならない。

 

今あなたがすべきことは、人類が「凡庸化する運動に与すること」ではない。

 

 

「自らに何らかの自らが生み出した厳しい道徳律を課すこと」である。

 

 

あなたが、「学校」や「会社」で身につけた「常識」や「道徳」は高貴に生きる上でなんら役に立たないゴミである。

 

 

あなたの苦しさや生きづらさとは「凡庸化への拒否反応」である。

 

 

 

 

それを「これは受け入れないとな」と思った瞬間、「終わりの始まり」である。

 

 

 

おもしろきことなき世を面白く

 

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