私は高杉晋作

頭がおかしいと言う人が「頭がおかしい」

友達の危険性〜友達とは〜

約 6 分

「友達とは何なのか?」

「なんで友達はこれほどいいものとされているのか?」

という主題は私の人生を通して哲学すべき対象である。

そうはいっても私自身過去に「いらない」という結論は既に出した。

ただ、キケロがのべたように、多くの人がその必要性は疑わない。

「友情という概念は唯一誰ひとりとしてその必要性を疑わないものである」

とキケローは述べた。

この言葉はあまりに重い。2000年後の今日も多くの人が疑っていない。

例えば、「多ければ多いほうが良い」という潮流はむしろFacebookなどで加速し、友達の定義は更に不明瞭なものとなりつつ有る。

だから私はあらゆる論法を行使して人々にその誤りに気づいてもらうことを果たしたいと思っている。

今日は、「集団」「群衆」を切り口に、「友達」の危険性を見つけた。

1.友達が多いと知性が著しく低下する

集団を分析したル・ボンの著書は友達のリスクを示唆する文献として非常に有効なため、以下「群衆」や「集団」を「友達」と読み替えてもらいたい。

ギュスターヴ・ル・ボンは以下のように言う。

・・・群衆に共通に存在する性質・・・集団的精神の中に入り込めば、人々の知能、したがって彼らの個性は消え失せる。異質的なものが同質的なものの中に埋没してしまう。

ル・ボンは、集団というのはその人が如何に賢者であろうとも知性を著しく低下させる破壊力が有ると述べる。

この辺は、例を考えてみるとわかる。例えば、「異業種交流会主催者」や「サークルの幹事長」をしている人間から知性を感じないと多くの人が感じたことがあるだろう。

集団というものに入った時点で如何に取りまとめリーダーシップを行使していようとその人間からは知性が失われておりその功績で相殺することができないことを示している。

そして、集団に所属することは、人間として明らかに退行するとル・ボンはさらに畳み掛ける。

人間は群衆地の一員となるという事実だけで、文明の段階を幾つも下ってしまうのである。それは、孤立していた時には、おそらく教養のある人であったろうが、群衆に加わると、本能的な人間、従って野蛮人と化してしまうのだ。

セネカが定義した「人間でない人間」という言葉がここでは最も適切なので、借用すると「友達」を増やすことに奔走する人間は、自らの知性をわざわざ低下させようとする「人間でない人間」なのである。

2.友達が集まった場の特徴

「友達」を増やそうとする「個人」の特徴についてここまで述べた。

次は、友達の危険性をさらに知るために、「友達」が集まった場合にその集団に見られる特徴に話をシフトしたい。

考えても見れば、古代の賢人は集団への迎合を頑なに拒否した。

ソクラテスが和民で飲み会をしていたということはありえないし、ショーペンハウエルが花舞で飲み明かしたということもありえない。

これは、もちろん知性の低下を恐れてであるが、それに加えその場にはあまりに危険な匂いを感じていたからであろう。

ル・ボンは、集団を形成する場をこう述べる。

・ ・・群衆は思考力を持たないのと同様に、持続的な意志をも持ち得ないのである。群衆は、単に衝動的で、動揺しやすいばかりではない。野蛮人と同様に、群衆は自己の欲望とその欲望の実現とのあいだに障害の存在するのをゆるさない。

集団は、どうやら「忍耐」をするという人間固有の能力を奪う力がある。

デカルトは『方法序説』で人間と他の動物を分けるものとして、「理性」をあげたが、集団を形成する場は「理性」という概念を消失させる力があるようだ。

このことに関しては、キルケゴールも『死に至る病』で批判しているが、「友達」という集団がよく開催する「飲み会」では、確かに「感性」的な話しか出てこない。

具体的に言えば、

「俺はあの女とヤッタ」

「〜食べたい」

「結婚したいなあ」

逆に

「ショーペンハウエルのあの考えは・・・」

「ゲーテも凄いけどエッカーマンの洞察は深いね」

「ニーチェは実は保守派なんだと思うよ」

と言った会話にはならない。

なぜなら「理性」という概念が消し去り、その他動物同様食欲や性欲、物欲にまつわる会話しかできなくなるからだ。

(年収や大企業につとめる俺凄い的な話も突き詰めれば含まれる)

つまり、もう一度言うが「友達」が集まる場というのは「理性」概念を消失させる特徴があるのである。

 

 

だからこそ、「人間」を「人間でない人間」にするのである。

断固として、友達を減らさなくてはならない。

3.友達を0にしたあとどうするか

こんなことを偉そうに言ってる私も、友だちを意図的に少なくすることへの後ろめたさを暫くの間持っていた。

おそらくあなたも時間を無駄にしていることを嘆きつつ現状を変えられないでいる。

その理由を私になりに分析すると2つある。

1.「友達が多いほうが良い」という宗教の洗脳から抜け出せていないから

2. なくした後に何も残らないことへの恐怖があるから 

「友達」という集団には宗教的要素があることはル・ボンも述べている。

従って、群衆には宗教が必要である、・・・・政治上、敬神上、社会上の信念は、常に宗教的形式をおびるという条件のものにおいてのみ、群衆の内に確立されるのであって、この宗教的形式が、それらの信念をして議論の余地をなくさせるのである。

これは「友達はなぜ必要なのか?」に対して、「友達はいたほうが良いから」というトートロジーを伺わせる言説である。

そういう人たちが洗脳から抜け出すためにすべきことがある。

ショーペンハウエルが言ったように「精神の客観視」が必要だ。

そうすれば、熱狂的信仰心から開放される。

デカルト的に言えば、「理性の行使」でもって洗脳を解く必要がある。

そして、すべてをなくした後であなたがどうすべきかを最後に書きたい。

福田恆存も『保守とは何か』で述べたように、人間は何かしらの不合理な信仰対象を求める生き物である。

これは、「友達は沢山いたほうが楽しい」「集団にいるほうが楽しい」という宗教から抜けだした後に何も信じる信仰対象がないと人間は辛いことを意味する。

そこで、あなたが信仰すべきものを伝えたい。

それは、伝統であり、古典である。

ル・ボンも「民族を真に導くものは、伝統である。」と述べたが、友達をなくした後に必要なのは、古典である。

古典を通して、賢人たちの知性に触れ自らを看過し、断固として集団による「知性の低下」「理性の剥奪」から自らの身を守らなくてはならない。

おもしろき事なき世を面白く

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群衆心理 (講談社学術文庫) : ギュスターヴ・ル・ボン, 桜井 成夫 : 本 : Amazon

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