私は高杉晋作

頭がおかしいと言う人が「頭がおかしい」

日本人なら知っておくべき飲み会嫌いのこと〜天才はそこにいる〜

約 6 分

天才と大衆を分けるものは何なのか?

 

  

 

これは、私の長きに渡るテーマである。

しかし、ショーペンハウエルは1つの答えを出していた。

 

 

 

 

今日はショーペンハウエルの『知性について』を使い考えてみた。

 

 

1.天才の条件

 

ショーペンハウエルいわく、天才とは「精神の客観性」のことである。

 

 

この有無が大衆との致命的な差なのである。

 

 

 

 

「精神の客観性」がない大衆の場合、何が問題なのか?

 

 

 

 

 

「大衆はものの考え方が、いかにも物分りが悪く凝り固まっていて、なかなか手に負えない代物である」とショーペンハウエルが嘆いたように、とにかく偏見や迷信を金科玉条のごとく信じるためとにかく頭が悪い。

 

 

 

 

 

具体的に見ていくと、今、日本で当たり前とされている医療制度や年金制度、雇用制度は世界から見た時かなり異質なものだし、崩壊することは目に見えている状態である。

 

 

 

 

 

しかし、大衆の場合、考えが凝り固まっているため、こういった各種制度を彼の言葉を借りれば、「幾百年も前から生き続けているもの」とみなしてしまう。

 

 

 

「年金はもらえる」

「俺はくびにならない」

「医療制度をもっとよくしろ」

 

 

 

 

など、実態に合わないことばかり述べる。

 

まさに「手におえない」のだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

天才の話に戻したい。

先程述べたが、天才は「精神の客観性」があるため、さながら幽体離脱的に世界を見ることができる。

 

 

 

もちろんカントが『純粋理性批判』で言ったように人間は対象を「ありのまま」みることは不可能であるということを踏まえた上で言っている。

 

 

 

 

 

 

だが、天才は、かぎりなく対象を恣意的な精神をなるたけ排除し、「ありのまま」に近い状態で捉えようとすることができる。

 

 

 

年金はもらえない 

医療は崩壊する

会社は吸収合併されるか倒産する可能性がかなりある

 

 

 

 

といったような不都合な事実であろうともおこりうる現象を受け入れ、自分で生きていくために修練を天才は重ねていけるのだ。 

 

 

 

 

 

 

2.大衆と天才は同じ生き物ではない

 

続いてここまでの内容もふまえつつ、天才と大衆の「楽しむ」ということに対する捉え方の違いを紹介したい。

 

 

 

 

 

一般的に我々は価値観が同じ人や話していて楽しい人を「仲間」とみなしたり「友達」とみなしたりする。

 

 

 

 

しかし、この話す内容に対して「楽しい」と感じる尺度が天才と大衆では根本的に違う。

 

 

 

だから、全くと言っていいほど「そりが合わない」状態になる。

そして互いが互いを「あいつは頭がおかしい」と思い合うのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

一言で言えば、大衆の場合、対話の内容や関心のすべてが「主観的なもの」にしかむかないのに対して、天才は「客観的なもの」に対して関心を向けることができる。 

 

 

 

 

 

大衆はその自らの知性を「主観的なもの」に総動員し、使いきってしまうとのこと。

 

 

 

具体的に言うと、ギャンブル、性交、生活上の便宜などがあげられる。

 

 

 

 

 

 

つまり、大衆の「楽しみ」というのは総じて感覚的なもののみに終始し、それ以外のことに対して、一切の感受性がないという点で動物と大差がないのだ。

 

 

 

 

 

 

以下にショーペンハウエルの言葉を引用したい。

 

 

 

彼らとは、実務上で話し合うのはよいが、そのほかのことでは、話し合うべきではない。彼ら相手の社交は堕落であり、自分をくだらなくするだけのことである。彼らの対話こそ、ジョルダーノ・ブルーノが「卑しい下等な野蛮な下品な会話」と名づけて、何としても避けようと自ら誓願したところのものにほかならない。

 ・

 ・

 ・

大多数の人間は、その本性上、「飲食」と「性交」以外の何事にも真剣になれないという性質をもっている。

 

 

 

 

 

私が長きにわたって抱いてきた「仕事は不満じゃないけど、それ以外のところで何としても関わりたくない」と思っていた理由を言葉におこしてくれている。

 

 

 

 

 

 

 

 

驚くべきは、300年も前から和民で呑んだくれてる奴らの会話の低俗性を予見していた点だ。

 

 

 

 

 

 

大衆は知性を「意志」にのみ使用する下等な生き物なのだ。

天才を志す人は断固としてこの会話に入っていくべきではないと彼は勧める。 

 

 

 

 

 

 

一般に天才と呼ばれる人は「社交嫌い」というレッテルを張られる。

 

 

 

 

しかし、実はそれは「世間で行われる対話レベルの低さ」に対して興味を持てず、モノローグの世界に入っていく選択をとるからなのである。

 

 

 

繰り返し言いたいのは、「社交」自体が嫌いなのではなく、下等な会話が行われるだけの「社交」に興味が無いだけなのである。 

 

 

 

 

私だってゲーテやショーペンハウエルが来る飲み会ならいきたいのだ。

 

 

3.「飲み会嫌い」は天才の資質あり

 

 

 

ショーペンハウエルの言葉を読んでいくと「飲み会嫌い」は「天才」としての資質があるように感じる。

 

 

 退廃的娯楽や退廃的会話に対して嫌悪感を持てるからだ。

 

 

 

 

私はそのひとりだと自負している。

人生で度々飲み会に連れて行かれたが一度たりとも楽しいと思ったものはない。

 

 

 

 

「感覚的なもの」以外の話にしか興味をもてない私にとっては苦痛以外の何者でもないのだ。

 

 

 

ここまでくれば、「付き合いが悪い」「コミュニケーションをとれない」といわれようが振りきれるだけの話だ。

 

 

 

 

 

皆に嫌われなければ「非凡」とはいえないのだから。

 

 

 

 

 

 

「社交性がない」と言われる人や「付き合いが悪い」と言われる人は元気を出してほしい。

 

あなたと私は「天才」になる可能性を秘めているのだ。

 私のように開き直れば良い。

 

 

 

 

 

逆にショーペンハウエルが言うように「皆が受け入れやすい」人間というのは「凡庸」であることの証明なので、なんら喜ぶことではないのである。

 

 

 

 

まあそれがいい人は「結婚して、30年ローンで住宅を買って、定年退職で務め上げて、老後は年金で」という「普通」の生活を送ればいいと思う。

 

 

「送ることができれば」の話だが

 

 

 

最後にショーペンハウエルは天才になる方法を書いているので、紹介したい。

 

非凡な思想を抱くには、暫くの間世界と事物とに対して没交渉となり、その結果、ごくありふれたものさえも未知のものとして現れるようにすれば良い。

 

 

 

 

これは私がブログを通して半年以上伝え続けている「友達はいらない」「飲み会はいらない」「スマホはいらない」「SNSはいらない」理論と奇しくも合致している。

 

 

 

 

大衆と没交渉になることで疑いを持つ能力が高まり「まともな人間」に近づくというのは私が近々証明するのでよく見ておくと良い。

 

 

 

 

 

 

ワグナーが言った「見かけだけ人間に似て作られた連中」

パルダザル・グラキアンが言った「人間でない人間」

 

 

達に時間を浪費してはいけない。

 

 

 

 

 

おもしろきことなき世を面白く

f:id:zyunn14641:20160522221620j:plain

 

知性について 他四篇 (岩波文庫) | ショーペンハウエル, Arthur Schopenhauer, 細谷 貞雄 | 本 | Amazon.co.jp

 

*すいませんAMZONのAPIがバグってるみたいで上手くリンクが貼れない。。。

Leave A Reply

*
*
* (公開されません)