私は高杉晋作

頭がおかしいと言う人が「頭がおかしい」

縁を切るべき人間が持つ特徴〜ジャンプの読みすぎが産み出した偽善者〜

約 6 分

まずはじめに言っておきたいのですが、私は「縁」、「絆」、「友達」と言う言葉が嫌いです

 

  

まあその理由は「みんなのために〜した」とかが大好きなとんでもない偽善者ばかりだからです。

 

 

 

蕁麻疹ができそうです。

 

 

 

 

 

 

 

 

釈迦(ブッタ)の言葉が興味深いです。

「自分より愛しい物が見つかるか世界中探したが、見つからなかった」

(『自説経』第5章)

 

 

 

 

 

 

 

仏の開祖の言葉だけに重いですね。

今日は、「みんなのために〜した」を振りかざすまやかしの新正義派(偽善者)の台頭を阻止すべく立ち上がりたいと思います。

 

 

 

 ぜひこの部類の人達と縁を切ってみて欲しいです。

 

 

参照したのは、小池龍之介氏の『しない生活』です。

 

 

1.偽善者よ「みんなのために」は漫画の中だけにしてくれ

 

「みんなのために」が流行っている世代とは、ジャンプ第二?黄金世代のさなかにあった現20代に多い気がします。

 

 

 

 

 

第二黄金期というのは、『ONEPIECE』『NARUTO』『遊戯王』『テニスの王子様』だったと思います。

 

 

 

 

 

 

 

これらの漫画は私は全て読んだこともあり、大好きな漫画ですが、総じて「みんなのために」というのが連呼されることが共通点です。

 

 

 

 

 

 

 

フィクションだからこそできる感動できるというのはまさにこれであり、現実世界でやられるとたまったものではないわけです。

 

 

 

 

 

*もちろんジャンプは一例です笑 

 

 

 

 

具体的に槍玉に挙げると、

 

「募金活動している大学生」

 

「出会い目的の被災地ボランティア」

 

「就職活動でアピールするための海外ボランティア大学生」

 

「同期飲み会の主催者」

 

「朝活をFacebookでやたら発信する人」

 

多すぎてきりがないですね。

上記のたぐいの人たちが生み出す「偽善に満ちた笑顔」は、みていて虫酸が走るわけです。

 

 

 

 

 

 

 

なぜここまで、「みんなのために」人間を嫌っているかというと彼ら・彼女らの本心が透けて見えるからです。

 

 

 

 

 

 

結局、彼ら・彼女らは結局「自分の承認欲求」を満たそうとしているだけです。

 

 

 

 

 

「なぜ、バイトして、金を赤十字に募金しないのか」

 

「なぜ、Facebookにいちいちみんなで肩を組んでいる写真をのせるのか」

 

 

 

 

とコメントしようものなら私は、「あいつは人間的に終わっている」とキレられます。

 

 

 

本当は、私の言う質問に答えられないからヒステリーになっているだけなのですが、、、

 

 

 

 

 

 

 

彼ら・彼女らは、「誰かに認められる形」でないと、ボランティアや慈善活動は出来ないのです。

 

 

 

 

 「そんなことは考えてやっていない」

 

という人がいそうなので、聞きたい質問が一つあるのです。

 

 

 

 

 

 

あなたは、ブッタを超える悟りに辿りつけたのか?

 

 

 

 

 

それなら、私の負けです。

 

 

 

 

 

まあ正式に彼らに勝負を挑もうとは思いません。

 

 

 

 

 

というのも、日頃からFacebookで友達を作ることに命をかけている彼ら・彼女らは、ネット上で味方が多いです。

 

 

SNSという土俵は彼らのホームゲームです。 

 

 

 

 

ですが、私の鶴の一声で、「みんなのために」に違和感を感じる人が増えることを祈ります。

 

ニーチェの言葉を少しだけ紹介しますね。

今日では「道徳的」「利己的でない」「無私無欲」のような概念が全て同じことを意味するようになったのであり、この偏見がすでに「固定観念」として、脳の病として猛威を振るううようになっているのである。

ニーチェ『道徳の系譜学』

 

 

2.「俺のためにやってる」という人の方が無害

 

私は、電車に乗って近くにお年寄りや妊婦さんが来れば秒速で席を譲る人間です。

 

 

 

 

 

「おいお前も偽善者じゃないか」

 

 

 

 

いや違うと言わせていただきたい。

なぜなら、私の場合、「自己完結的に、承認欲求を満たしているだけ」だからです。

 

 

 

 

簡単にいえば、私はナルシストなのです。

 

 

 

 

 

 

「席を譲るのは紳士として当然である。我ながらいいことをした」

 

「道を教えてあげる俺は紳士として当然である。我ながらいいことをした」

 

 

 

 

 

 

 

こういったナルシズムだけで私は行動します。

 

 

 

 

決して、「俺を認めてくれよーーーーーーーーーー」といいながらFacebookに投稿することはありません。

 

 

 

 

 

 

 

しかし、ナルシズムは、すこぶる世間の評判が悪いですね。

 

 

 

 

 

 

「みんなのために」という偽善者的正義は、他人に認めてくれよと言わんばかりに強要するわけですが、ナルシストは決して見返りを求めないので、明らかに社会的に良いと思うのですけどね。。。。。

 

 

 

 

 

 

 

 

たぶんナルシストが嫌われる理由としては、わたしの推測では、「強者として、弱者を救ってあげている」という構図が鼻につくからだと思います。

 

 

 

 

確かに、私の場合、自分が強者と感じる場面しか動かないです。

(電車の時とか外国人に道を教える時とか)

 

 

 

 

 

 

ニーチェは『道徳の系譜』のなかで以下のように言っています。

 

 

「他人のために」という善なる道徳は、「他人のことを考えない強者は劣っていて、他人のために尽くす私達(弱者)は優れている」(という構図を作るためのものだ。)

 ニーチェ『道徳の系譜』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ニーチェよ。貴殿はなぜそこまでするどいのか笑

 

 

 

 

 

 

 強者へのネガティブキャンペーンは確かにすごいものがあります。

 

実際に、強者でも他人のことを考える人くらいいるのに。。。

 

 

 

 

 

 

逆に、SNSへ投稿するためにボランティアはするが、電車で席は譲らないという人間がどれほどいるのやらと考えてしまいますね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自分のナルシズムを満たすためだけに行動する人のほうがウソをつかないので、信頼できると思うのですがいかがですか?

 

 

 

3. 縁とか絆とか偽善者の振りかざすものは全て胡散臭い

 

何回も言ってきましたが、「みんなのために」をスローガンに縁とか絆とかの大事さをうったえるのはうさんくさいのでもうやめて欲しいのです。

 

 

 

 

 

 

そういうことを軽く言う人に限って、「Facebookで友達交換」しただけで、もう縁や絆を作れたと思っているわけです。

 

 

 

 

 

 

「私は自分のために生きる。そして、自分が強者だと感じる領域においてのみ弱者に手を差し伸べる」

 

 

 

それでいいではないでしょうか?

 

 

 

 

 

 

なぜ、Facebookにあげる目的で「みんなのために〜します」という人達の方が人として優れているのでしょうか?

 

 

 

 

 

 

こんな奴が大量に増えるから私のような人間には友達がいないのかもしれません。

 

 

 

 

 私は、これからも新正義派と戦い続けたいと思います。

 

 

 

お読みいただきありがとうございました。

 

 

 

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