私は高杉晋作

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私は高杉晋作

頭がおかしいと言う人が「頭がおかしい」

【コラム】なぜ、会社を辞める理由が「人間関係」に関わるものが多いのか。

2016年も年末にきた。

このつかの間の休みは、多くの人々にとって辛い日常からほんの一息つく久々の機会となっていることであろう。

 

 

しかし、年明けになれば、また同じ日常が待っているのは言うまでもない。

 

 

会社辞めたいなあ」

 

 

そんなあなたの声が聞こえてこなくもない。

ちなみに会社辞める理由というと、いろいろと上げることができる。

next.rikunabi.com

 

ただ、これを見ればわかる通り、その多くが「人間関係」となっている。

面白いのが、昔から「人間関係」で多くの人が何十年と悩んできたはずなのに、まだそのサイクルが終了していないところだ。

 

  • これうちの会社じゃ普通だよ。
  • これがうちの社風。
  • うちの会社はこれできないと出世できないね。

 

あからさまに語られるこれらの言葉の愚かぶりを言っている人間たちは一向に気づきそうもないところにまた絶望するポイントがある。

 

  

今日は、なぜ長年にわたり会社というものを辞める理由が特に人間関係によるのかということについて考えたことを書きたい。

  1. 入社後の平均化運動
  2. なぜ理不尽がまかり通るのか❶ーアナーキックな世界
  3. なぜ理不尽がまかり通るのか❷ー労働者という孤立した生き物

 

1.入社後の平均化運動

かなり一般化した話になりがちなところに目をつむってもらいここからは読んでいただきたい。

 

まず、我々が会社辞めるきっかけを作り出す最初の地点は学齢期から労働者への移行のタイミングにある。

 

ヴェイユは以下のように述べる。

学校での子供は、成績の良い生徒であっても良くない生徒であっても、存在を認められたひとりの人間であり、周囲の人々はその子の成長を促すべく、その子の最良の感情に訴えてきた。ところが卒業から一夜明けるやたちどころにして、その子は機械の単なる付属に、事物ですらない何かに成り下がる。しかも、その子が愚劣きわまる動機に促されて隷従するとしても、その子が服従しさえすれば周囲は一切気にもかけない。労働者の大半は、少なくとも人生におけるこの移行期に、ある種の内的な眩暈とともに自分はもはや存在していないという印象を抱かされる。

シモーヌ・ヴェイユ『根をもつこと』

 

上記の指摘は極めて適切であるように思われるし、書かれたのが100年前とはとても思えないほどに新鮮な言葉だ。

 

ヴェイユは「個性を尊重する教育」がいかにあろうとも労働に従事するタイミングで正反対の指導を受けるがゆえに、多くの若者がめまいを伴うと書いている。

 

 

今の日本もこれに漏れない。

ここ20年ほど「個性尊重」をスローガンにし、「企業戦士」を育成していた少し前と比べ学校教育というのは個人の多様なあり方を相対的に許容できる風土が醸成された。

 

*もちろん日本の大衆教育が十分に個性尊重がなされているかという「普遍性」にここではあえて触れない。あくまで「相対的に」である。

 

 

しかし、会社というのは卒業した学生の「個性」を労働における「不用物」と考える場所だ。 

 

その理由は、労働とは、個人が「何ができるか」が問題で、「その人物は誰か」というところには一切の関心を持たないということを最大の特徴とするからだ。

 

「何ができるか」を満たすためには非人間的な機械人間である方が都合がいい。

 ここには今の所折り合いは着きそうもない。

 

 

 

別の言い方をすると、あなたは一人の個人から「人間」という抽象概念になることを求められている。

 

これに関しては、マルクスの指摘が極めて的を射ているので紹介しよう。

生産活動によって、人間は一つの商品として、人間商品として、商品と定義される人間として、生産されるだけでない。商品の定義にまことにふさわしいのだが、精神的にも肉体的にも非人間化された存在として生産される。

カール・マルクス『経済学・哲学草稿』

 

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ただ、「人格破壊」というのは何もしなくても起きるものではないのはお分かりかと思う。

それゆえに、あなたの人格を破壊するために多くの人間が暴力を様々な形で行使するわけだ。

 

 

それを象徴する言葉に「理不尽」というものがあるわけだが、その理不尽がどうしてまかり通るのかを考えれば、人間関係から会社辞める人が多い理由を知ることができるかもしれない。少し話を進めよう。

 

 

2.なぜ理不尽がまかり通るのか❶ーアナーキックな世界

私が思うに大きく分けて二つの理不尽がまかり通る理由がある。

 

 

一つ目から見よう。

一つ目は、「あるべきこと」「あるべきでないこと」といった善悪の判断基準の一切が、指導者(会社、上司、同僚など)により規定される閉鎖的世界にあなたが放り込まれるからである。

 

その閉鎖した世界の最大の特徴は、「神」なる戒律もなければ、「法」の概念もなく、慣習もない、光のささない閉ざされたところにある。

人権の喪失が起こるのは通常人権として数えられる権利のどれかを失ったときではなく、人間世界における足場を失ったときのみである。この足場によってのみ人間はそもそも諸権利を持ち得るのであり、この足場こそ人間の意見が重みを持ち、その行為が意味を持つための条件をなしている。

ハンナ・アレント『全体主義の起源2』

 

「この人常識がないな」

「どうしたらそういう発想になるんだこの上司は」

 

あなたはこういう感情を抱いたことがあるかもしれない。

 しかし、いくらあなたがイエスに近い高度な「良心」を持ち合わせようとも徒労に終わる。

 

 

なぜなら、今しがた述べたように当該の「無世界」においては世界での「常識」「感覚」「慣習」は全く通用しないからだ。

 

すなわち、現実の世界の経験にそれぞれのところを納得させる判断力の領域から一つの経験を切り離し、こうして常識の判断の及ばなくなった経験、一般的な関連から断ち切られた経験を、今度はその経験から理論的に引き出せる限りの極端にまで押しつめるのである。このような方法によって、現実の世界や絶対化されない経験が決して持ち得ない矛盾のない首尾一貫性が達成されることになる。 

ハンナ・アレント『全体主義の起源』

 

「新人は一発芸→会社を盛り上げるため」

「上司の言うことは絶対→それが社風だから」

 

上記のような荒唐無稽なロジックも無世界に持ち込めば綺麗さっぱりとした論理的一貫性を持つようになってしまう。 

3.なぜ理不尽がまかり通るのか❷ー労働者という孤立した生き物

こういった話を私は過去にもしてきたが、

 

「じゃあ辞めればいいじゃん」

 

とコメントを残す人が結構多い。

しかし、それができれば誰も困っていないというのが私の考えである。

 

今の話は本題とは無関係ではない。

 

 

ここで、理不尽がまかり通る二つ目の理由に移ろう。

二つ目の理由は、そうした無世界から逃げ出すことができないほどに「労働者」が弱いからということが挙げられる。

 

 

マルクスの表現を借りれば、労働者とはそれ自体が「資本」であり、それを「労働力」として貸し出せば利子をもらい豊かになるわけだが、一方で、その資本自体の維持には出て行くものも多い。

 

つまり、「利子」が得られなくなれば、その途端にこれまで労働者として高額の収入を得ていたとしても肉体的な破滅を迎える日はそう遠くないということになる。

 

実力行使による賃金の引き上げは・・・・奴隷の給料が改善されたというだけのことで、労働者にも労働にもその人間的な尊厳や価値をもたらすものではない。

けれども、労働者は、不幸なことに、生命を持つ資本であり、生命維持のために物を必要とする資本だから、働かないでいると利子を得られず、生存が危うくなる。

カール・マルクス『経済学・哲学草稿』

 

 

アレントも『人間の条件』において「労働のモチベーション」を「生命の維持」という最も切迫した感情が人々の最大のモチベーションであると述べた。

 

 

その空虚さにもかかわらず、強い緊迫感から生まれ、何物にもまして強力な衝動の力に動かされている。なぜなら生命そのものがそれにかかっているからである。

ハンナ・アレント『人間の条件』

 

それゆえに、如何に嫌であろうと無世界から抜け出すことはできない。

 

 

経団連加盟企業、公務員、外資系企業勤務

 

 

こういった人間が何を勘違いしたか道を堂々と歩くのがこの社会なわけだが、彼らほど頭の悪いものもいない。

 

状況は、その人間たちが見下すフリーターやニートと大差はないことに気づいていない。

 

4.まとめ

会社辞めるにあたり人間関係が起因していることから私は下記のことを今日は伝えたかった。最後にまとめを書く。

 

まず、今日労働者は3種類に分かれる。

  1. 無世界における「順応」を見事やってのける人間(会社を辞めることはない)
  2. その無世界が奇跡的に逃亡を機とせざるをえないほどではない穏便な場所にいる人間*(会社を辞めない人間)
  3. 無世界から無世界への移動を繰り返す人間(会社を辞める人間)

*ちなみに後者は救われているかのように見えるが、それは程度の問題で、本質的に無世界に生きている事実は揺るがないため本質的な差異はそう大きいものではない。

  

 

ここで、改めて伝えたいのは、無世界が作り出す人間関係に苦痛を感じ「辞める人間」は不幸であることは言うまでもないが、「辞めない人間」も不幸であるということだ。

 

 

誰もが不幸になる世界 

 

それが、今の世界である。

 

 

 

面白きことなき世をおもしろく