私は高杉晋作

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私は高杉晋作

頭がおかしいと言う人が「頭がおかしい」

頭がいい人と頭が悪い人とは結局どういう人なのか?

「あの人頭がいい

「あの人マジで頭が悪いわ」

 

 

あなたは一度は口にしたことがある言葉かもしれない。

しかし、その意味については無意識に使っているからイマイチ見えないのではなかろうか?

 

 

 

私は、この問題について長きにわたり考え、それを言語化しようと取り組んできた。

今日は、その考えが一旦整理がついたこともあり踏み込んでいきたいと思う。

 

 

もちろん「お前自分が頭がいいような言い方するよな」「自己正当化かよ」といわれるであろう。ただ、今日はその中傷を恐れずに書いていきたいと思う。

 

  1. 頭が悪い人とは?
  2. まともな人(頭がいい人)とは?
  3. 人間の「複数性」を認めるということ

 

1.頭が悪い人とは?

頭が悪い人とは何なのか?

 

  • 低学歴?
  • 一流企業就職者に失敗した人間?
  • 会社をすぐに辞める人?

 

私の考えでは全て違う。

東大のバカを何度も見たことがある一方で、高卒であろうと尊敬してやまない人もいた。

 

大企業に行ったけれど頭が悪いと言われる人もいるし、大企業ではないけれども「頭がいい」と思う人もいた。

 

会社にしがみついている頭が悪いと言われる言われている一方で、すっぱりやめた「頭がいい」人も見たことがあった。

 

 

 

あなたも同じ感覚を抱いたことがあるであろう。 

では、結局「頭が悪い人間」とはなんなのか?ということになる。

 

ずばり私の考える結論を述べていきたい。

 

 

それは、知識が少ない人間でもなければ、社会的ステータスが低い人間でもない。

 

 

あらゆることへ無関心な人間である。

 

 

 

正直これ以外にないのではないかと私は思っている。

彼らは、流れていく日常が「あるべき姿」であると疑わない。

 

 

そして特筆すべきことがあって、昨今の「無関心」というものは一般的な「自己中」というものの範疇をこえた一つの特徴がある。

 

 

「自らへの無関心」にまで達するというものだ。

 

 

 

だから、人間として最も愚かである自ら進んで没我し「隷従」することを喜んでできてしまう。

 

・・・彼らは自分自身に対する関心を奪われてしまった時、すでに貧困や搾取の鎖よりはるかに多くのものを失っていた。・・・大衆化した個人は一切の不安や心配の源泉を失ってしまった

ハンナアレント『全体主義の起源』

 

彼らは不安や心配で動くことはない。

彼らを突き動かすのはただ言語化されえぬ恐怖のみである。

 

 

そして彼らはその恐怖を振り払う安堵感を「多数派」のぬくもりに求める。

今風にいうと「共感」という言葉が適切であろう。

 

共和制の基本的経験は、従って、同じ力を持った市民たちの共存であり、共和国における公的生活を支配する共和主義的な美徳は、一人でいないことの喜びである。

ハンナアレント『全体主義の起源』 

  

では、彼ら彼女ら「頭が悪い人」を支えているものは何かと言えばある特定のイデオロギーに他ならない。

 

・・・人間は外的な専制に対して頭をさげる時に運動の自由を放棄するが、それと同様にこの論理への屈服によって人間は内的な自由を放棄するのだ。人間の内的な能力としての自由が何かを始める能力と同一であることは、政治的現実としての自由が人間と人間との間にある運動の空間と同一であるのと全く同じである。始まりに対しては、いかなる論理、いかに説得力ある演繹も何ら力も持っていない。なぜなら論理の連鎖が成立するためには、前提という形で始まりがなければならないからだ。

ハンナアレント『全体主義の起源』 

 

つまり、思考力が欠如している人は何らかの暗黙の前提をイデオロギー化している可能性が高いということだ。

 

 

具体的には、「社会で生きるってのはこういうものだ」「みんな辛いし俺も頑張らないと」「飲み会に出るのも仕事のうち」といったものが想定されるわけだが、もちろんこのような前提は何の根拠もない荒唐無稽なものだ。

 

 

だが、そこに対して疑いの眼差しを向けられない。

それゆえに、もう一度言うが「頭が悪い」のだ。

 

 

2.まともな人(頭がいい人)とはどういう人なのか?

あなたが「お前は権威主義だ」と言おうとも私は古代の「天才」と言われた人たちの力を借りることを求める。

 

 

ちなみにそうやって中傷する人間ほど「平日の夜は和民で一杯」という権威にぶら下がっていることが多く、あなたのほうがキチガイだと伝えてあげたいものだ。

 

まあいい。

 

 

2000年以上の歴史を通して「頭がいい」と言われる人には明確な共通点がある。

代表的なものとして、以下の3つがあげられる。

  1. 目の前の「当たり前」と言われる事象に驚くこと
  2. 目の前の事象に不安を抱くこと
  3. 目の前の事象に疑いを持てること

ものごとに驚き、不信を抱くことが理解への第一歩である。それは、知的な人間に特有なスポーツであり、贅沢である。だからこそ、知性人に共通な態度は、驚きに瞠った目で世界を観るところにあるのである。しっかりと開かれた瞳にとっては、世の中のすべてが不思議であり、驚異である。

ホセ・オルテガ・イガセット『大衆の反逆』

 

 

 

ただ、世間一般的にはこういう考えをすることは「頭がいい」どころか「社会不適合者」「頭がおかしい人」なのはいうまでもない。

 

 

これについてショーペンハウエルが以下のように嘆いている。

もしも、偉大な精神の持ち主が謙遜の徳を具えている、というようなことでもあれば、それは世人の気に入ることであろう。しかし、そのようなことは、残念ながら「形容矛盾」なのである。なぜかというと、偉大で謙虚な精神と言うものがあるとすれば・・・他人たちの、しかもその数限りないあの連中の思想や流儀の優れた価値を認め、そしてこれらとはいつも甚だしくゆき方を異にする自分の思想や流儀を、それらに従属させ順応させる・・・・ことにならざるを得ないであろう。だがそうすれば、彼はまったく無為に終わるか、それとも他人たちと同様の月並みな作品や業績を生み出すだけであろう。

ショーペンハウエル『知性について』

 

ショーペンハウエルがいっているのは皆から受け入れられるような謙虚な偉大な精神の持ち主というものは存在しないということだ。(形容矛盾)

 

 

なぜなら、謙虚という言葉は響きこそいいが、凡庸な価値観への隷従することを意味するからであり、それをすれば即天才はただの凡人になり下がることは明快だからだ。

 

 

頭がいい人は世間的に「頭がいい人」となった時点で、非凡な業を為すレベルではない。

 

 

世間で狂っていると言われた人間こそ「本当の狂人か」もしくは、「本当に頭のいい人(天才)」になるチャンスを持っている。

 

 

世間で受け入れられない人には元気を出して欲しいというのが私の想いだ。

 

  

3.人間の「複数性」を認めるということ

私は、ある時を境に「つながり」を売りにしたツールすべてから逃走をした。

そして大学までの友人ほぼすべてから逃走を図った。

 

 

なぜこのようなことをしたのかというと、ああいった場所には「共感」というものしかなく「複数性」に極めて乏しい世界だからだ。

 

 

 

 

今ほど「共感」という言葉が奨励される時代もないかと言えるが、「共感」にはいいことばかりではないということを改めて伝えたい。

 

・・・すべての人と同じでない者、すべての人と同じ考えかたをしない者は締め出される危険にさらされているのである。ところがこの「すべての人」が真に「すべての人」でないことは明らかである。・・・

以上、現代の恐るべき事実であり、その偽りない残酷な実相なのである。

ホセ・オルテガ・イガセット『大衆の反逆』

 

 

今、すべての「個性的なもの」「ユニークなもの」は「社会のために」「会社のために」「みんなのために」といった大義名分のもと排斥の危機に瀕している。

 

 

 

ただ、我々は社会や会社と生きる前に自分自身と生きなくてはいけない。

そうでなくては「生きながらにして死んでいる人間となる」というほかないであろう。

 

最善なのは、ただ一つのことだけが確実だと知っている人々です。すなわちどんなことが起ころうとも、私たちは生きる限り、自分のうちの自己とともに生きなければならないことを知っている人々なのです。

ハンナアレント『政治の約束』

 

あなたは「天才」であることを諦めるというのなら私は止めないが、、、

 

p.s

ちなみに私に対してよく浴びせられる中傷として

 

「お前は『〜すべき』と断言すべきでない」といつもいうが「〜すべき」と言ってるではないか!」

 

というものがある。

これに関して反論するのもアホらしいが私が「〜すべきでない」と言う対象は常に全体主義運動に起因する「〜すべき」というイデオロギーのみである。一方で、「〜すべき」と言う対象は「人間の『複数性』を拡張する営み」すべてである。

ここはアレントと同じだ。

 

おもしろきこなき世を面白く

 

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