私は高杉晋作

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私は高杉晋作

頭がおかしいと言う人が「頭がおかしい」

【第四回】「空気が読めない」の「空気」とは何なのかー英語をやるより勉強すべきことー

「あいつまじで空気壊したよな。次回から呼ぶなよ」

 

「あの会議の空気ではねえ。言いたくても言えないよ。」

 

「最近の若者は本当に空気が読めないなあ」

 

 

 

空気」という言葉をわれわれは多用する。「ムード」と言ったり、「雰囲気」と言ったりすることもあるらしい。

 

 

 

これは、世界全体に共通するものなのかと思いきや実は、これは日本特有のものであるらしい。

 

ちなみに主は人生において「空気が読めない」「協調性がない」「マイペース」と言われ続けてきた人間である。

 

まあ私の事は置いておこう。

 

 

 

この「空気」に関する考察を行ったのが、天才山本七平である。

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我々は、グローバルな時代を生きるにあたってこの知性に習い日本の「常識」がいかに「非常識」であるかを知る必要がある。

 

 

 

今日は、「空気」とは何か?について考察したのち、その恐怖を押さえた上で、最後にどうあらねばならぬかについて書こうと思う。

 

  1. 「空気」とは何なのか
  2. 「空気」こそが日本人の弱点
  3. 今、日本人にとって必要なこと

 

 

1.「空気」とは何なのか?

いきなりであるが、「空気」とは何かをズバリ書いていきたい。(私の理解で恐縮だが、、)

 

「空気」とは、日本人が物事の決定を行う際にほとんどのケースで用いられる行動規範である。

 

その行動規範自体は、対象の臨在感的把握、つまり、①対象に対する一方的な感情移入による絶対化がベースとなっている。

 

そして、その「空気」は②自己が対象と運命共同体となることを強いるものである一方で、③容易に新たな「空気」によりケロリと塗り替えられる脆弱な性質を持つ。

 

 

 

 

ざっと述べるとこんな感じなのだが、いきなりこれだけを見ても「??」だと思うので、数字を振った箇所について補足していきたい。

 

 

 

①「一方的な感情移入による対象の絶対化

これは、「空気」の核心をついた部分とも言えるが、「空気」はあらゆるものを相対化させてみること、つまり比較検討することを拒否するという性質を持つ。

 

その力は、あらゆる科学的根拠を軽々と退けるほどの力を持つ。

 

「文藝春秋」昭和五十年八月号『戦艦大和』でも、「全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う」(軍令部次長・小沢治三郎中将)という発言が出てくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人々にはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確な根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそう言ったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性位の根拠はもっぱら「空気」なのである。

山本七平『「空気」の研究』

 

 

これは、戦中だけでなく、今も当てはまる話で、「飲み会は無駄だ」ということをいかに時間的金銭的な観点から事実を突きつけようとも「飲み会はいるだろ」という「空気」に一蹴されるのが日本社会である。

 

 

www.shinsaku-takasugi.com

 

自己が対象と運命共同体となることを強いるもの

これは平たく言えば、個人の意志を撲滅し、集団に埋没させることである。

 

この特質の恐ろしさは、誰もがその行動を「させられた」という感情の基行うために失敗や崩壊が明らかになった際に、誰に責任を追及していいかがわからなくなるのだ。

 

「せざるをえなかった」とは、「強制された」であって自らの意思ではない。そして彼を強制したものが真実に「空気」であるなら、空気の責任は誰も追及できないし、空気がどのような論理的過程を経てその結論に達したかは、探求の方法がない。

山本七平『「空気」の研究』

 

これは簡単に言えば、私が20年後に「ほら会社の飲み会なんて無駄だっただろ」と言った時に「いやあの時は行かざるをえなかったし」という返答が返ってくるケースが該当する。

 

 

この場合、「空気」に支配されたがゆえに、「自分の人生」に自分が責任を取れないという「終わった」状態を呼び込んでいるわけだがもちろん取り返しはつかない。

 

 

容易に新たな「空気」によりケロリと塗り替えられる脆弱な性質を持つ。

「空気」は、その方向性が失敗した際に当事者がなぜその行動を行ったかを全く説明できない。

 

 

そして、それに対する反省をすることなく次の「空気」に簡単に転換し得る性質を持つ。

  

多くの人は、明治において過去のシンボルを捨てた。そして、捨てないものを旧弊とか頑迷固陋とかいって罵倒した。しかしそれは、罵倒した人がその状態を脱却して、新しいシンボルへの臨在感的把握をしなかったということではなく、その逆、すなわち直ちに新しいシンボルを臨在感的に把握し、そのシンボルとの間で「文明開化」という「空気」を醸成したというだけである。もちろん言葉もスローガンとしてシンボルになり得る。従ってそれが「尊皇攘夷」であれ「文明開化」であれ、その言葉が分析シンボルである限りは、その転換は、これらの「標語」の意味内容とは関係なく、それへの感情移入が成り立てば、すぐに転換し「空気」を醸成しえて当然である。

山本七平『「空気」の研究』

 

これは、政治において最近では顕著である。

 

多くの人間が「空気」で「郵政民営化」を支持し、「民主党」を政権につかせ、舛添要一を都知事にしたのである。あとは大阪都構想や「これから政治の勉強をします」と言ったタレント議員の当選なんかが挙げられる。

 

 

しかしながら、今やどうだろう「小泉竹中は日本のガン」、「民主党に政権は二度と渡してはいけない」「舛添は死ね」という変わりようである。

 

民主主義なのに民主は責任を取らず、スケープゴートに取らせるだけである。

エドマンドバーグを1000回は輪読してもらいたいものだ。

 

 

 

上の山本七平の引用の「文明開化」と「尊皇攘夷」に「郵政民営化」「政権交代」と入れてみると私が言いたいことがわかると思う。

 

 

 

2.「空気」こそが日本人の弱点

山本七平の哲学は一貫していて、「善が善を生むとは限らない、往々にして悪を生み出し得る。一方で、その逆もまた然りである」というものだ。

 

従って今振り返れば、戦争直後「軍部に抵抗した人」として英雄視された多くの人は、勇敢にも当時の「空気」に「水を差した人」だったことに気付くであろう。従って「英雄」は必ずしも「平和主義者」だったわけではなく、”主義”はこの行為とは無関係であって不思議でない。「竹槍戦術」を批判した英雄は、「竹槍で醸成された空気」に「それはB29に届かない」という「事実」を口にしただけである。

山本七平『「空気」の研究』

 

 

戦時中の空気なき今「竹槍でB29を撃ち落とす」や「火炎瓶で戦車を撃沈する」というのがいかに荒唐無稽かどうかは明白である。

 

 

しかしながら、これを戦時中は大真面目に議論し、実行に移したのである。

そして、これに反対したものたちが、「死に値する」とされたのである。

 

 

「空気」というものはそれほどに恐ろしいものなのだ。

 

 

 

 

 

 

現在も考えて欲しい。

例えば、医療制度や年金制度。

崩壊するファクトは並んでいる。

 

 

だけど、危機感を抱いている人がほとんどいない。それはひとえに「大丈夫だ」という「空気」が周囲を取り囲んでいるからに他ならない。

 

 

私が、激安居酒屋に行って、知り合いに飲み会の最中にこの話をしたとしよう。

 

「やめよう。その話は。空気が悪くなる」

 

と言われるだろう。

 

仮に言われなくても次から私は飲み会に誘われることもない。

 

 

  

そう。「空気」を読めば、破滅するのである。

 

 どれほど現実をないがしろにしようが、かれらにならそれを受け入れさせることができるのだ。かれらは自分たちがどれほどひどい理不尽なことを要求されているかを十分に理解せず、また、現実に何が起こっているかに気づくほど社会の出来事に強い関心を持ってもいないからだ。

理解力を欠いていることによって、彼らは、正気でいられる。

ジョーオーウェル『1984』

 

 

3.今、日本人にとって必要なこと

これに関しては、言いたいことは明快である。

 

「空気」を読むな。

 

ということだ。

 

そして一歩離れたところから世の中にどういった「空気」があるかを分析する。

 

 

まず”空気”から脱却し、通常性的規範から脱し、「自由」になること。この結論は、誰が「思わず笑いだしそう」と、それしか方法はない。

そしてそれを行いうる前提は、一体全体、自分の精神を拘束しているものが何なのか、それを徹底的に探求することであり、すべてはここに始まる。

山本七平『「空気」の研究』

 

 

 

いつまでも「空気」を読んでいては、「自由な発想」ということは不可能であり、何らかの既存にある対象を絶対化するということを永遠繰り返すだけになる。

そしていずれ破滅するのだ。

 

 

昔は、「火炎瓶」や「竹槍」がそうだったが、今は、「飲み会」や「友達」に変わった。

 

明治以来、前述の行き方を繰り返しつつ、われわれは何一つとして創造的な思想も体型も体制も生み出さなかった。前期の投書者も含めて、われわれは何かを忘れていた。それは、新しく何かを生み出すものは、前期のようなあらゆる拘束を断ち切った「自由」すなわち「自由なる思考」だけであり、それがなければわれわれは、常に、情況を設定する既存の対象を臨在感的に把握して、それとの関係で自らを規定する以外に方法がないこと。 

山本七平『「空気」の研究』

 

 

もちろん「空気」から完全に自由になっている人などいるまい。

しかし、「自分がそれに蝕まれているかもしれない」という疑いこそが知性的な態度ではなかろうか。

 

 

 

その「空気」を読んではいけない。

 

おもしろき事なき世を面白く

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